目次
「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」とは
「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」は、マインドマップソフト FreeMindで作成した家系図マインドマップのサンプルのひとつで、明智光秀の明智家を含む戦国時代の四十家の家系図を連結した家系図です。
「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」の二種類のファイル
「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」のファイルは、オリジナル(FreeMind)版とPDF版があります。
申し訳ありませんが、現在(2022/04/21)有料オリジナル版はダウンロードを中止しています。
オリジナル版は、FreeMindというフリーのマインドマップ作成ソフトで作成されています。
FreeMindは「FreeMindのダウンロード」から、Windows版、Mac版、Linux版がダウンロードできます。
オリジナル(FreeMind)版は、編集可能なので、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に追加や修正を加えたり、これをもとにして別の家系図を作ることも自由にできます。
●「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」(PDF)
オリジナル版とPDF版とは、使い方やページ構成などが異なります。
詳しくは、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」のPDF版とオリジナル版の違いをご参照ください。
「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」の全体概要
このサンプル「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」は、明智光秀の明智家を含む戦国時代の四十家の家系図を連結した家系図で、先にサンプルとして作成した「安倍晋三関連家系図」に比べて、掲載家系が多く、家系図のなかの各人のメモ欄に書かれた情報が格段に多い、かなり大規模な家系図のサンプルです。
全ての家が明智家と直接婚姻または養子で結びついているわけではありません。
各家は、この家系図内の四十家のいずれかの他家と婚姻または養子で結びつきがあるので、ひとつの連結家系図として描いたものです。
以下の図は、「明智光秀」のメモ欄です。

メモ欄の文章がかなり長くなっています。
日本中世史に詳しい人や特別興味を持っている人は別ですが、戦国時代のさまざまな家の、名前だけ書かれた家系図を見ても、知っている名前がところどころに見られる程度で、それぞれの人がどういう事績のある人なのかが普通はよくわかりません。
そこで、メモ欄に事績を記し、だいたいどういう人だったのかがわかるようにしました。
メモ欄の出典は、日本語版Wikipediaで、メモ欄の後ろのノードにURLも付けてあります。
歴史上の人物なので、さまざまな学説がある場合もありますが、「一般的にはこんなところなのではないかという人物紹介」で、「誤りはあるかもしれないが、ないよりはあったほうがいいだろう」という目的で書いています。
紹介文の分量は、有名でたくさんのことがわかっている人はそれなりに多く、わかっていることが少ないひとは分量も少ないので、紹介文の量は、その人物の認知度を見る目安になります。
メモ欄の紹介文の内容ですが、家系図のメモなので、政治上の事跡よりも、血縁上の事柄を優先しています。例えば、大名であった人であれば、どのような政治をおこなったかということよりも、家督相続争いや、誰に家督を継いだかという事柄を優先的に書いています。
戦国時代は激動の時代で戦(いくさ)が多いので、戦死や自害を強要された場合が多くあります。その人が天寿を全うしたのか、非業の死を遂げたのかは、気になるところなので、死因はわかれば必ず明記しています。
戦国時代の大きな節目は、以下の三つあります。
- 上洛した織田信長に対して臣従したか、敵対したか
- 織田信長が死去した本能寺の変後、豊臣秀吉についたか、敵対したか
- 豊臣秀吉の死後、徳川家康についたか、敵対したか
三人の天下人に対して敵対すると、戦死するか、生き残っても家は潰される場合が多いので、この点は意識的に書いています。
わかれば必ず書くようにした項目は、具体的には以下のようなものです。
- 顕著な身分を赤字で明記しました。大名の場合は、領国名も明記しました。大名の他には、「○○寺 第○世」などの寺社の役職、「利休七哲のひとり」などの文化的な称号を明記しました
- 家の当主であるかどうかを赤字で明記しました。何代目当主かがわかる場合は「○○家 第○代当主」などと明記しました
- 生まれた年の元号・西暦
- 家督を継いだ場合は、前家督者の死去により継いだのか、隠居などの前家督者の意思により継いだのか。
- 上洛した織田信長に対して、臣従したか、敵対したか
- 本能寺の変ののち、豊臣秀吉側についたか、明智光秀についたか。また、その後、秀吉に臣従したか、敵対する側についたか
- 豊臣秀吉の死後、関ヶ原での戦いで徳川家康側についたか、石田三成についたか。また、その後、大坂の陣で徳川家康についたか、豊臣家についたか
- 死去した年の元号・西暦と死因
- 墓所
また、城と寺社については、よく知らない場合はどこにあるかわからないので、「三河国 緒川城(愛知県知多郡東浦町)」など、現在の都道府県・市町村を括弧で明記しました。
各家系図では、氏や家の名前の前のノードに「下総国」などの令制国(飛鳥時代から江戸時代まで使われた国名)を書いています。これは各家系図の最初の人の出身地の令制国です。
ただし、「柴田氏」は、家系図の最初の人・柴田勝家の出身は尾張国なのですが、家系図では越前国としています。
また、各家の最初に書かれている令制国は、戦国時代・江戸時代に多く行われた領地替えなどにより大きく変わるので、各家の令制国は便宜的なものです。
2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の登場人物
2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』は、主人公が明智光秀なので、その登場人物は「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」にも登場します。
戦国時代・江戸時代の名前は、幼名や出家したのちの名前など、ひとりが複数の名前を持ちます。ドラマでは、登場する時の名前で当然呼ばれますが、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」では、おもに人生の最後に使われていた名前を使っていますので、名前が異なる人物がいます。
『麒麟がくる』の主な登場人物で「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」にも登場する人物は以下の通りです。異なる家に同じ名前があるのは、実家と結婚先と両方で登場する人物です。
- 結城氏
なし
- 水野氏
-
- 源応尼(家系図では華陽院、於大の方の母、徳川家康の母方の祖母):真野響子
- 水野信元(於大の方の異母兄、徳川家康のおじ):横田栄司
- 於大の方(源応尼の娘、水野信元の異母妹、徳川家康の生母):松本若菜
- 安祥松平家(宗家)
-
- 松平広忠(徳川家康の父):浅利陽介
- 於大の方(徳川家康の生母):松本若菜
- 徳川家康(松平広忠の嫡男):風間俊介
- 築山殿(家系図では築山御前、徳川家康の正室):小野ゆり子
- 長沢松平家
なし
- 勝幡織田氏
-
- 織田信秀(織田信長の父、勝幡織田氏当主):高橋克典
- 土田御前(織田信長の生母):檀れい
- 織田信康(織田信長のおじ):清家利一
- 織田信光(織田信長のおじ):木下ほうか
- 織田信広(織田信長の異母兄):佐野泰臣
- 織田信長(織田信秀の嫡男、勝幡織田氏当主):染谷将太
- 帰蝶(織田信長の正室):川口春奈
- 織田信勝(織田信長の同母弟):木村了
- 織田信興(織田信長の弟):増本尚
- 織田信忠(織田信長の嫡男):井上瑞稀
- 清洲織田氏
-
- 織田彦五郎(家系図では織田信友、尾張国守護代、清洲城主):梅垣義明
- 杉原氏
なし
- 浅野氏
なし
- 豊臣秀吉の母・仲の家系
-
- なか(家系図では仲、豊臣秀吉の生母):銀粉蝶
- 豊臣秀吉の家系
-
- 羽柴秀吉(家系図では豊臣秀吉、織田信長家臣):佐々木蔵之介
- 豊臣秀吉の姉・智の夫の家系
なし
- 豊臣秀吉の妹・朝日姫の夫の家系
なし
- 佐治氏
なし
- 池田氏
なし
- 本多氏
なし
- 神戸氏
なし
- 小笠原氏
なし
- 姉小路氏
なし
- 土岐氏
-
- 土岐頼芸(土岐頼純のおじ、深芳野の最初の夫、美濃国守護):尾美としのり
- 深芳野(土岐頼芸の側室):南果歩
- 土岐頼純(帰蝶の最初の夫、土岐頼芸のおい、美濃国守護):矢野聖人
- 帰蝶(土岐頼純の正室):川口春奈
- 美濃斎藤氏(道三流)
-
- 斎藤道三(美濃国守護代):本木雅弘
- 小見の方(斎藤道三の正室、帰蝶の生母、明智光秀のおば):片岡京子
- 斎藤孫四郎(斎藤道三の二男、帰蝶の同母弟):長谷川純
- 帰蝶(斎藤道三の娘):川口春奈
- 深芳野(斎藤道三の側室、斎藤義龍の生母):南果歩
- 斎藤義龍(斎藤道三の庶長子、帰蝶の異母兄):伊藤英明
- 斎藤喜平次(斎藤道三の三男、母は小見の方):犬飼直紀
- 美濃斎藤氏
-
- 斎藤利三(明智光秀家臣、元稲葉良通家臣):須賀貴匡
- 美濃稲葉氏
-
- 深芳野(稲葉良通の異母姉妹、土岐頼芸の側室、斎藤道三の側室):南果歩
- 稲葉良通(土岐家家臣、斎藤道三・斎藤義龍家臣、織田信長家臣):村田雄浩
- 明智氏
-
- 明智光安(明智光秀のおじ、明智城主):西村まさ彦
- 小見の方(明智光秀のおば、斎藤道三の正室):片岡京子
- 牧(家系図ではお牧の方、明智光秀の生母):石川さゆり
- 明智光秀(明智氏当主、『麒麟がくる』主人公):長谷川博己
- 熙子(明智光秀の正室):木村文乃
- 明智左馬助(家系図では明智秀満、明智光安の嫡男、明智光秀のいとこ):間宮祥太朗
- 岸(家系図では倫子、明智光秀の長女):天野菜月
- たま(家系図では玉子、明智光秀の二女):芦田愛菜
- 明智十五郎(家系図では明智光慶、明智光秀の嫡男):深川大賀
- 浅井氏
なし
- 蒲生氏
なし
- 京極氏
なし
- 神保氏
なし
- 柴田氏
-
- 柴田勝家(織田信長家臣):安藤政信
- 武田氏(若狭国)
-
- 牧(家系図ではお牧の方、武田信豊の娘、明智光秀の生母):石川さゆり
- 皇室
-
- 正親町天皇(第百六代天皇):坂東玉三郎
- 覚恕(正親町天皇の異母弟、比叡山天台座主):春風亭小朝
- 誠仁親王(正親町天皇の第一皇子、東宮):加藤清史郎
- 近衛家
-
- 近衛前久(近衛家第十七代当主、関白):本郷奏多
- 九条家
なし
- 二条家
-
- 二条晴良(二条家第十四代当主、関白):小籔千豊
- 久我家
なし
- 三条西家
-
- 三条西実澄(家系図では三条西実枝):石橋蓮司
- 足利将軍家
-
- 足利義輝(室町幕府第十三代将軍):向井理
- 足利義昭(足利義輝の同母弟、室町幕府第十五代将軍):滝藤賢一
- 足利義栄(足利義輝・義昭のいとこ、室町幕府第十四代将軍):一ノ瀬颯
- 本願寺
- 細川氏(和泉上守護家)
-
- 細川藤孝(細川元常の養子、三淵藤英の異母弟、室町幕府奉公衆):眞島秀和
- 細川忠興(細川藤孝の長男):望月歩
- 細川氏(京兆家)
-
- 細川晴元(室町幕府管領):国広富之
- 三淵氏
-
- 三淵藤英(細川藤孝の異母兄、室町幕府奉公衆):谷原章介
- 細川藤孝(三淵藤英の異母弟):眞島秀和
「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」の各家の家系図の概要
各家の家系図の概要を紹介します。
各家の名前「○○氏」「○○家」は、この戦国時代の家系図を作成する際に、だいたい15世紀の末ぐらいの家系図の最初の人が属する家の名前として採用したもので、時代が下ると、そこから子孫が新たな家を興すので、あくまでもこの時点の家の名前という意味になります。
例えば、徳川家康は、この家系図では「安祥松平家(宗家)」の中に入っていますが、「足利将軍家」のように「徳川将軍家」とすることもできるので、必ず「安祥松平家(宗家)」でないといけないというわけではありません。
「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」は明智光秀の明智氏から作り始めましたが、明智氏は直接多くの他家と婚姻・養子関係があるわけではありません。
明智家と直接つながるわずかな他家から、さらに他家、さらに他家へと家系図を繋げています。
戦国時代は、平穏な時代と異なり各家の盛衰が激しい時代で、家が断絶してしまったのか、江戸時代まで生き残ったのかが関心のあるところです。
三人の天下人の家系の盛衰はよく知るところですが、他の家の盛衰の結果は、詳しい人でなければ、あまり知られていないかもしれません。
この家系図の範囲は、すべての家がそうではありませんが、15世紀末から最大で18世紀前半ぐらいまでの範囲で書いていますので、この範囲でどのような盛衰があったのかを概略しています。
これは家系図なので、戦国時代の有名な家と主従関係があっても、婚姻か養子の関係がないと家系図には入ってきていません。
しかし、この家系図から更に婚姻・養子をたどって有名な家を加えることは可能です。家系図はある意味終わりがないものなので、この家系図も適当なところで切り上げたものとなります。例えば、甲斐国の武田氏、中国地方の毛利氏などはこの家系図に入れることができますが、入れていません。
以下は、各家が明智家と具体的にどのような経路でつながるか、また、この連結家系図内で他家と直接どのようなつながりがあるか、などの概略です。
下総国 結城氏
徳川家康(安祥松平家宗家)の二男で豊臣秀吉の養子となった結城秀康が、さらに養子に入った家系です。
下総国の結城氏は、結城晴朝の時代に、相模国 北条氏康と上杉謙信の間で勢力を保ち、豊臣秀吉の小田原征伐に参戦することで近世大名として生き残ることに成功した家です。
結城氏の本拠地は下総国ですが、結城秀康の代から越前国に転封し、名前も「結城」から「松平」に変えたため、「結城氏」とはなっていますが、実質は「越前松平家」の家系図です。
結城秀康の子から派生した以下の各家の初期の家系図がその内容となります。
- 長男・松平忠直は、越前国 北ノ庄(福井)藩主となりますが、乱行のため配流となり、その子・松平光長が越後国 高田藩主となりましたが、家督相続争い(越後騒動)で改易となり、結城秀康の五男・松平直基の孫・松平宣富が光長の養子として入り、美作国 津山藩主となります
- 二男・松平忠昌は、越前国 福井藩主となり、子孫が福井藩主を相続し、第八代藩主・松平宗矩まで家系図には入っています
- 三男・松平直政は、出雲国 松江藩主となり、子孫が松江藩を相続し、出雲国 広瀬藩主、出雲国 母里(もり)藩主もここから出ています
- 五男・松平直基は、播磨国 姫路藩主となったが赴任途上死去したため、子孫は陸奥国 白河藩主となりました
- 六男・松平直良は、越前国 大野藩主となり、その子・松平直明は、播磨国 明石藩に加増転封となりました
結城氏を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光継(明智氏)の娘は、斎藤利賢(美濃斎藤氏)の継室へ
- 春日局(美濃斎藤氏)の養子・お振の方は、徳川家光(安祥松平家宗家)の側室へ
- 徳川家康(安祥松平家宗家)の二男で豊臣秀吉の養子となった結城秀康は、結城晴朝(結城氏)の養子へ
結城氏の家系図の範囲は、結城秀康の養父・結城晴朝(1534年生)から、越前国 福井藩 第八代藩主・松平宗矩(1715年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、結城氏と他家との結びつきの例です。
- 結城晴朝の養子は、徳川家康(安祥松平家宗家)の二男で、豊臣秀吉(豊臣秀吉の家系)の養子・結城秀康
- 松平忠直の正室は、徳川秀忠(安祥松平家宗家)の三女・勝姫
- 松平忠直と勝姫の長女・亀姫は、徳川秀忠(安祥松平家宗家)の養女として、高松宮好人親王(皇室)の妃へ
- 松平忠直と勝姫の二女・鶴姫は、徳川家光(安祥松平家宗家)の養女として、九条道房(公家・摂関家の九条家)の正室へ
- 松平綱賢の妻は、九条道房(公家・摂関家の九条家)の三女・梅姫
三河国 水野氏
徳川家康の生母・於大の方の生家の家系です。
三河国の水野氏は、尾張国の緒川城と三河国の刈谷城を拠点に、今川氏傘下の松平氏との関係維持を転換して織田信秀との同盟に乗り換え、織田信長と徳川家康の清洲同盟を仲介しましたが、水野信元とその子・水野信政が武田勝頼との内通を疑われて殺され、水野家はいったん断絶となります。
その後、織田信長から再興を許され、江戸幕府の多くの大名を輩出しています。
- 水野忠政の二男・水野信元の三男が土井利勝(下総国 古河藩 初代藩主、江戸幕府 老中・大老、土井家宗家 初代当主)
- 水野忠政の四男・水野忠守の子孫は、三河国 岡崎藩主
- 水野忠政の八男・水野忠分の子孫は、上野国 安中藩主、紀州藩附家老
- 水野忠政の九男・水野忠重の子孫は、三河国 水野藩主、備後国 福山藩主、信濃国 松本藩主
水野氏を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光継(明智氏)の娘は、斎藤利賢(美濃斎藤氏)の継室へ
- 春日局(美濃斎藤氏)の養子・お振の方は、徳川家光(安祥松平家)の側室へ
- 松平広忠(安祥松平家宗家)の正室は、水野忠政(水野氏)の娘・於大の方
水野氏の家系図の範囲は、於大の方の父である水野忠政(1493年生)から、三河国 岡崎藩 第四代藩主・水野忠之(1669年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、水野氏と他家との結びつきの例です。
- 水野忠政の女子・於大の方は、松平広忠(安祥松平家宗家)の正室へ(徳川家康の生母)
- 水野忠胤の妻は、織田信長(勝幡織田氏)の娘・於振
- 水野忠重の側室は、証如(本願寺)の娘・妙舜尼
- 水野忠直の女子は、木下利次(豊臣秀吉の家系)の正室へ
三河国 安祥松平家(宗家)
徳川家康の家系です。
安祥松平家宗家は、松平長親が三河に侵攻した北条早雲を破り、松平宗家化して戦国大名へと発展させました。
松平長親の子・松平信忠は器量がないと隠居させられますが、信忠の子・松平清康は三河国統一を果たし、清康の子・松平広忠の時代に今川氏に臣従し、広忠の子・松平家康は今川氏の人質となっていましたが、桶狭間の戦いで今川義元が死去すると、家康は今川氏から戦国大名・徳川家康として独立します。
松平長親の以下の五人の男子から、松平家の分家が出ています。
- 松平信忠は、安祥松平家宗家として、徳川家康に続き、徳川将軍家となります
- 松平親盛は、福釜松平家となり、のちに大名などは出ていないため、本家系図では親盛・親次親子のみです
- 松平信定は、桜井松平家となり、信定の曾孫・松平忠正までは宗家と対立しますが、それ以降は宗家の徳川家康に服し、のちに武蔵国 松山藩主、遠江国 浜松藩主、駿河国 田中藩主、遠江国 掛川藩主、信濃国 飯山藩主などを出しています
- 松平義春は、東条松平家となり、宗家の松平清康・広忠父子の最も困難な時期に宗家を支持しました。徳川家康はその四男・松平忠吉を養子に入れましたが、嗣子なく断絶しました
- 松平利長は、藤井松平家となり、その子・松平信一は徳川家康から信頼され常陸国 土浦藩主となり、その子孫も、丹波国 篠山藩主、播磨国 明石藩主、大和国 郡山藩主、下総国 古河藩主、丹波国 亀山藩主などを出しました
安祥松平家宗家を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光継(明智氏)の娘は、斎藤利賢(美濃斎藤氏)の継室へ
- 春日局(美濃斎藤氏)の養子・お振の方は、徳川家光(安祥松平家宗家)の側室へ
安祥松平家宗家の家系図の範囲は、徳川家康の高祖父・松平長親(1473年生)から江戸幕府 第六代将軍・徳川家宣(1662年生)あたりまでで、徳川家康とその子や孫に家系図に入れるべき人が多いため、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」のなかで一番分量の多い家系図です。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、安祥松平家宗家と他家との結びつきの例です。
安祥松平家宗家
- 松平清康の正室・華陽院は、その最初の夫が水野忠政(水野氏)
- 松平広忠の正室は、水野忠政(水野氏)の娘・於大の方(徳川家康の生母)
- 松平信康の正室は、織田信長(勝幡織田氏)の娘・徳姫
- 徳川家康の継室は、豊臣秀吉の妹・朝日姫(豊臣秀吉の妹・朝日姫の夫の家系)
- 徳川家康の二男・結城秀康は、羽柴秀吉(豊臣秀吉の家系)の養子へ
- 徳川秀忠の正室は、織田信勝(勝幡織田氏)の娘で、豊臣秀吉(豊臣秀吉の家系)の養子の小姫
- 徳川秀忠の継室は、浅井長政(浅井氏)の娘・江で、その最初の夫は佐治一成(佐治氏)、次の夫は豊臣秀勝(豊臣秀吉の家系)
- 徳川秀忠の四女・初姫は、常高院(京極氏)の養子へ
- 徳川秀忠の五女・和子は、後水尾天皇(皇室)の女御へ
- 徳川綱重の正室は、二条光平(公家・摂関家の二条家)の娘で、九条兼晴(公家・摂関家)の養子の隆崇院
- 徳川綱重の継室は、二条光平(公家・摂関家の二条家)の養子からさらに鷹司孝子(安祥松平家宗家)の養子となった紅玉院
- 徳川家光の側室は、春日局(美濃斎藤氏から美濃稲葉氏へ)の養子・お振の方
- 徳川頼房の側室は、准尊(本願寺)の娘・弥々
桜井松平家
- 松平信定の正室は、織田信定(勝幡織田氏)の娘
- 松平忠頼の正室は、織田長益(勝幡織田氏)の娘
- 松平忠重の正室は、木下延俊(杉原氏)の長女
藤井松平家
- 松平忠晴の正室は、杉原長房(杉原氏)の娘で、浅野長晟(浅野氏)の養子
三河国 長沢松平家
徳川家康のおば・碓井姫が結婚した松平政忠の家系です。
長沢松平家は、長沢城(愛知県豊川市)を拠点にした家系で、徳川家康のいとこ・松平康忠(家康のおば・碓井姫の男子)は徳川十六神将のひとりですが、その子・松平康直が嗣子なく死去し、これに徳川家康はその男子二人を養子として入れましたが、二人目の松平忠輝は素行に問題があって改易となり、長沢松平家は断絶となりました。
長沢松平家を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光継の娘(明智氏)は、斎藤利賢(美濃斎藤氏)の継室へ
- 春日局(美濃斎藤氏)の養子・お振の方は、徳川家光(安祥松平家宗家)の側室へ
- 松平清康(安祥松平家宗家)の娘・碓井姫は、松平政忠(長沢松平家)の妻へ
長沢松平家の家系図の範囲は、松平政忠(1560年死去)から、長沢松平家へ養子に入った徳川家康の六男・松平忠輝(1592年生)までです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、長沢松平家と他家との結びつきの例です。
安祥松平家とつながりが深いことがわかります。
- 松平政忠の妻は、松平清康(安祥松平家宗家)の娘・碓井姫
- 松平康忠の正室は、松平広忠(安祥松平家宗家)の娘・矢田姫
- 松平康直の養子は、徳川家康(安祥松平家宗家)の七男・松平松千代
- 松平松千代の養子は、徳川家康(安祥松平家宗家)の六男・松平忠輝
尾張国 勝幡織田氏
織田信長の家系です。
尾張国の守護である斯波氏のもとで、守護代であった織田氏が清洲織田氏と岩倉織田氏に分かれ、清洲織田氏の配下に、織田信長の家系である勝幡織田氏がありました。
勝幡織田氏は、織田信定が勝幡城(愛知県愛西市)を中心に力をつけ、その子・織田信秀の代に戦国大名化して主家である清洲織田氏に対抗し、その子・織田信長が尾張国統一を成し遂げました。
勝幡織田氏では、織田信長が天下人となりましたが、本能寺の変で死去したのち、子孫の多くは没落し、江戸時代の大名として生き残ったのは、この家系図内では、以下の数名です。
- 織田信長の二男・織田信雄の四男・織田信良が上野国 小幡藩主
- 織田信長の二男・織田信雄の五男・織田高長が大和国 宇陀松山藩主
- 織田信長の弟・織田信包の長男・織田信重が伊勢国 林藩主
- 織田信長の弟・織田信包の三男・織田信則が丹波国 柏原藩主
- 織田信長の弟・織田長益の長男・織田長孝が美濃国 野村藩主
- 織田信長の弟・織田長益の四男・織田長政が大和国 戒重(かいじゅう)藩主
- 織田信長の弟・織田長益の五男・織田尚長が大和国 柳本藩主
勝幡織田氏を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光綱(明智氏)の娘・御ツバキは、織田信長(勝幡織田氏)の側室へ
勝幡織田氏の家系図の範囲は、織田信長の祖父・織田信定(1538年死去)から織田信高(1641年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、勝幡織田氏と他家との結びつきの例です。
- 織田信秀の五女・お市の方は、浅井長政(浅井氏)の継室へ
- 織田信長の正室は、斎藤道三(美濃斎藤氏道三流)の娘・帰蝶
- 織田信長の長女・徳姫は、松平信康(安祥松平家宗家)の正室へ
- 織田信長の側室のひとりは、明智光秀(明智氏)の妹・御ツマキ
- 織田信澄の妻は、明智光秀(明智氏)の四女
尾張国 清洲織田氏
尾張国の守護である斯波氏のもとで、守護代であった織田氏が清洲織田氏と岩倉織田氏に分かれ、清洲織田氏の配下に、織田信長の家系である勝幡織田氏がいましたが、織田信長により、守護代の清洲織田氏も岩倉織田氏滅ぼされます。
清洲織田氏を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光綱(明智氏)の娘・御ツバキは、織田信長(勝幡織田氏)の側室へ
- 織田信秀(勝幡織田氏)の正室は、織田達勝(清洲織田氏)の娘
清洲織田氏の家系図の範囲は、織田敏定(清洲織田氏にわかれたときの当主)の子・織田寛定(1495年死去)から、織田信長に滅ぼされ最後の当主となった織田信友(1555年死去)までです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、清洲織田氏と他家との結びつきです。
- 織田達勝の娘は、織田信長の父である織田信秀(勝幡織田氏)の正室へ
尾張国 杉原氏
豊臣秀吉の正室・おね(北政所)の生家の家系で、関ヶ原で西軍でありながら徳川家康に寝返ったことで有名な小早川秀秋もこの家系で生まれています。
杉原氏に養子に入り、杉原氏のこひ(朝日殿)の婿となったのが、杉原家利で、その子が、木下家定、おね(北政所)、やや(長生院)などです。
おね(北政所)、やや(長生院)は、その母・こひ(朝日殿)の妹・ふく(七曲殿)の嫁ぎ先である浅野家の養子となるので、杉原氏は木下家定の子孫が継いでいきます。
杉原氏は、豊臣秀吉関連の家系ともいえるので、秀吉の死後も生き延びたのかが気になるところですが、関ヶ原の戦いで、おねの兄・木下家定は中立を守り、それが評価されて備中国 足守藩主となり、その子孫も足守藩主、肥後国 日出藩主を出しています。
杉原氏を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光継の娘(明智氏)は、斎藤利賢(美濃斎藤氏)の継室へ
- 春日局(美濃斎藤氏)の養子・お振の方は、徳川家光(安祥松平家宗家)の側室へ
- 徳川家康(安祥松平家宗家)の三女・振姫は、浅野長晟(浅野氏)の正室へ
- 浅野長勝(浅野氏)の正室は、杉原家利の娘・ふく(七曲殿)
杉原氏の家系図の範囲は、おね(北政所)の祖父・杉原家利(おそらく15世紀末から16世紀初頭生)から、江戸幕府 旗本の木下延由(1614年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、杉原氏と他家との結びつきの例です。
- 杉原家利の娘・ふく(七曲殿、おねのおば)は、浅野長勝(浅野氏)の妻へ
- 杉原定利の娘・おね(北政所)は、浅野長勝(浅野氏)の養子へ
- 杉原定利の娘・やや(長生院)は、浅野長勝(浅野氏)の養子へ
- 木下延俊の正室は、細川藤孝(細川氏和泉上守護家)の娘・加賀
尾張国 浅野氏
豊臣秀吉の正室・おね(北政所)の養子先、おね(北政所)の姉妹・やや(長生院)の養子先・嫁ぎ先の家系で、江戸時代になると忠臣蔵の浅野長矩もこの家系です。
浅野氏は、豊臣秀吉の正室・おね(北政所)の養子先で、豊臣秀吉の時代、浅野長政は五奉行の一員となりましたが、秀吉死後の関ヶ原の戦いでは徳川家康を支持したため、長政の子は、以下のように江戸幕府の大名として生き残りました。
- 長男・浅野幸長は、紀伊国 和歌山藩主
- 二男・浅野長晟は、紀伊国 和歌山藩主、安芸国 広島藩主
- 三男・浅野長重は、常陸国 笠間藩主、その子・浅野長直は、播磨国 赤穂藩主
浅野氏を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光継の娘(明智氏)は、斎藤利賢(美濃斎藤氏)の継室へ
- 春日局(美濃斎藤氏)の養子・お振の方は、徳川家光(安祥松平家宗家)の側室へ
- 徳川家康(安祥松平家宗家)の三女・振姫は、浅野長晟(浅野氏)の正室へ
浅野氏の家系図の範囲は、浅野長政(1547年生)の養父・浅野長勝から、浅野長広(1670年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、浅野氏と他家との結びつきの例です。
- 浅野長勝の妻は、杉原家利(杉原氏)の娘・ふく(七曲殿)
- 浅野長勝の養子は、杉原定利(杉原氏)の娘・おね(北政所)で、豊臣秀吉(豊臣秀吉の家系)の正室へ
- 浅野長勝の養子は、杉原定利(杉原氏)の娘・やや(長生院)で、長勝の養子・浅野長政の正室へ
- 浅野長晟の正室は、徳川家康(安祥松平家宗家)の三女・振姫
- 浅野光晟の正室は、徳川秀忠(安祥松平家宗家)の孫で徳川家光(安祥松平家宗家)の養子の満姫
尾張国 豊臣秀吉の母・仲の家系
豊臣秀吉の母の仲(大政所)の生家である関家の家系です。
関兼貞の子は、仲(大政所)を含め女性だけのようで、すべて他家に嫁いでいるため、関家自体はここで終わっています。
豊臣秀吉の母・仲の家系を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光継の娘(明智氏)は、斎藤利賢(美濃斎藤氏)の継室へ
- 春日局(美濃斎藤氏)の養子・お振の方は、徳川家光(安祥松平家宗家)の側室へ
- 徳川家康(安祥松平家宗家)の継室は、竹阿弥(豊臣秀吉の家系)の娘・朝日姫(豊臣秀吉の妹)
- 木下弥右衛門(豊臣秀吉の家系)とその養子・竹阿弥(豊臣秀吉の家系)両方の妻は、関兼貞(豊臣秀吉の母・仲の家系)の娘・仲(大政所)
豊臣秀吉の母・仲の家系の家系図の範囲は、関兼貞と仲(大政所)を含む娘だけです。
「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、豊臣秀吉の母・仲の家系と他家との結びつきは以下の一箇所だけです。
- 関兼貞の娘・仲(大政所)は、木下弥右衛門の妻へ
尾張国 豊臣秀吉の家系
豊臣秀吉の家系です。
豊臣秀吉は天下人となりましたが、その後は以下のように豊臣家は短命でした。
- 豊臣秀吉の男子・豊臣秀頼とその男子・豊臣国松は大坂の陣で死去
- 豊臣秀吉の養子・小早川秀秋は、小早川家に養子へ
- 豊臣秀吉の養子・豊臣秀次は、秀次事件により一族ことごとく秀吉により殺害
- 豊臣秀吉の養子・豊臣秀勝は、その妻・お江が徳川秀忠の継室となり、その女子・豊臣完子は、摂関家の九条幸家の正室となりましたが、秀勝に男子はありません
- 豊臣秀吉の養子・結城秀康は、結城家に養子へ
- 豊臣秀吉の弟・豊臣秀長の男子・羽柴小一郎は早世し、秀長の養子・豊臣秀保は大和国 郡山城主となりましたが、嗣子なく早世しました
豊臣秀吉の家系を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光継の娘(明智氏)は、斎藤利賢(美濃斎藤氏)の継室へ
- 春日局(美濃斎藤氏)の養子・お振の方は、徳川家光(安祥松平家宗家)の側室へ
- 徳川家康(安祥松平家宗家)の継室は、竹阿弥(豊臣秀吉の家系)の娘・朝日姫(豊臣秀吉の妹)
豊臣秀吉の家系の家系図の範囲は、豊臣秀吉の父・木下弥右衛門(1543年死去)から、豊臣国松(1608年生)あたりまでです。
以下は、豊臣秀吉の家系と「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」にある他家との結びつきの例です。
- 豊臣秀吉の正室は、杉原定利(杉原氏)の娘で、浅野長勝(浅野氏)の養子・おね(北政所)
- 豊臣秀吉の側室のひとりは、浅井長政(浅井氏)の娘・茶々(淀殿)
- 豊臣秀吉の側室のひとりは、織田信長(勝幡織田氏)の娘で、蒲生氏郷(蒲生氏)の養子・三の丸殿で、三の丸殿は、さらに二条昭実(公家・摂家の二条家)の継室へ
- 豊臣秀吉の側室のひとりは、京極高吉(京極氏)の娘で、その最初の夫は、武田元明(武田氏)
- 豊臣秀吉の養子のひとりは、木下家定(杉原氏)の五男・小早川秀秋
- 豊臣秀吉の養子のひとりは、木下吉房と豊臣秀吉の姉・智(豊臣秀吉の姉・智の夫の家系 )の長男・豊臣秀次
- 豊臣秀吉の養子のひとりは、徳川家康(安祥松平家宗家)の二男・結城秀康で、さらに結城晴朝(結城氏)の養子へ
- 豊臣秀頼の正室は、徳川秀忠(安祥松平家宗家)の娘・千姫(天樹院)
尾張国 豊臣秀吉の姉・智の夫の家系
豊臣秀吉の姉・智(日秀尼)の夫・木下吉房の家系です。
木下吉房と智とのあいだの男子三人は、豊臣秀吉と豊臣秀長の養子となって木下家を出たので、木下家はここで終わりました。
豊臣秀吉の姉・智の夫の家系を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光継の娘(明智氏)は、斎藤利賢(美濃斎藤氏)の継室へ
- 春日局(美濃斎藤氏)の養子・お振の方は、徳川家光(安祥松平家宗家)の側室へ
- 徳川家康(安祥松平家宗家)の継室は、竹阿弥(豊臣秀吉の家系)の娘・朝日姫(豊臣秀吉の妹)
- 木下弥右衛門の娘・智(豊臣秀吉の家系)は、木下吉房(豊臣秀吉の姉・智の夫の家系)の妻へ
豊臣秀吉の姉・智の夫の家系の家系図の範囲は、木下吉房(1534年生)・智(日秀尼)夫婦と、すべて豊臣家の養子となった三人の男子のみです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、智(日秀尼)の夫の家系と他家との結びつきの例です。
- 木下吉房の妻は、木下弥右衛門の娘・智(日秀尼)
- 木下吉房の長男・豊臣秀次は、豊臣秀吉(豊臣秀吉の家系)の養子へ
尾張国 豊臣秀吉の妹・朝日姫の夫の家系
豊臣秀吉の妹・朝日姫の夫・佐治氏の家系です。
豊臣秀吉の妹・朝日姫の夫の家系を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光継の娘(明智氏)は、斎藤利賢(美濃斎藤氏)の継室へ
- 春日局(美濃斎藤氏)の養子・お振の方は、徳川家光(安祥松平家宗家)の側室へ
- 徳川家康(安祥松平家宗家)の継室は、竹阿弥(豊臣秀吉の家系)の娘・朝日姫(再婚、豊臣秀吉の妹)
- 竹阿弥(豊臣秀吉の家系)の娘・朝日姫(豊臣秀吉の家系)は、佐治日向守(豊臣秀吉の妹・朝日姫の夫の家系)の妻へ(最初の夫)
夫・佐治日向守とのあいだに子供がないので、佐治氏はここで終わり、夫婦二人だけの家系図です。
「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、佐治日向守の家系と他家との結びつきは以下の二箇所だけです。
- 佐治日向守の妻・朝日姫は、竹阿弥(豊臣秀吉の家系)と仲(大政所)の娘
- 佐治日向守の妻・朝日姫は、豊臣秀吉によって佐治日向守と離縁させられ、徳川家康の継室へ
尾張国 佐治氏
江戸幕府 第二代将軍・徳川秀忠の継室・江(崇源院)の最初の夫の家系です。
尾張国の佐治氏は、大野城(愛知県常滑市)を拠点とし、佐治信方が織田信長の妹・お犬の方を妻としましたが、伊勢長嶋攻めで戦死して、お犬の方は細川昭元と再婚します。
佐治信方の子・佐治一成は、浅井長政の娘・江を正室としますが、信長の死後の小牧・長久手の戦いで徳川家康帰陣の船を提供したことで羽柴秀吉の怒りを買って大野城を追放され、江とも離縁させられ、江は秀吉の甥・羽柴秀勝と再婚します。佐治一成の継室となるのは織田信長の娘・於振です。佐治一成の男子には佐治為成がいますが、著名な事績はないようです。
佐治氏の家系を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光綱(明智氏)の娘・御ツバキは、織田信長(勝幡織田氏)の側室へ
- 織田信秀(勝幡織田氏)の娘・お犬の方は、佐治信方(佐治氏)の妻へ
佐治氏の家系図の範囲は、佐治信方(1553年生)の父・佐治為景から、江の夫・佐治一成の男子・佐治為成までです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、佐治氏の家系と他家との結びつきの例です。
- 佐治一成の正室は、浅井長政(浅井氏)の娘・江(崇源院)
- 佐治一成の継室は、織田信長(勝幡織田氏)の娘・於振
尾張国 池田氏
織田信長の乳母で、信長の父・織田信秀の側室となった養徳院の実家で、のちに子孫が以下のように多くの大名を輩出した家系です。
養徳院の男子・池田恒興とその長男・池田元助は、羽柴秀吉方として小牧・長久手の戦いで徳川家康と戦い戦死しますが、恒興の二男・池田輝政と三男・池田長吉の子孫からは多くの大名が出ています。
同じ人物の移封が多く、ひとりが複数の藩主を歴任する例が多いのですが、瀬戸内海と山陰の以下の藩主を出しています。
- 播磨国 姫路藩主
- 播磨国 赤穂城主
- 播磨国 山崎藩主
- 播磨国 赤穂藩主
- 播磨国 平福藩主
- 備前国 岡山藩主
- 備前国 児島藩主
- 備中国 鴨方藩主
- 備中国 松山藩主
- 備中国 生坂藩主
- 因幡国 鳥取藩主
- 淡路国 洲本藩主
池田氏を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光綱(明智氏)の娘・御ツバキは、織田信長(勝幡織田氏)の側室へ
- 織田信秀(勝幡織田氏)の側室は、池田政秀(池田氏)の娘・養徳院
池田氏の家系図の範囲は、養徳院(1515年生)の父・池田政秀から、池田輝録(1649年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、池田氏の家系と他家との結びつきの例です。
- 池田政秀の娘・養徳院は、織田信秀(勝幡織田氏)の側室へ
- 池田輝政の側室は、徳川家康(安祥松平家宗家)の二女・督姫
- 池田光政の正室は、本多忠刻の娘(徳川秀忠の孫)・勝姫
伊勢国 本多氏
徳川四天王のひとりで、徳川家康の信頼が最も厚かった本多忠勝の家系です。
本多氏の家系図は、本多氏内部での養子(青の矢印)がやたら多いのですが、これらは、実子ではない男子が養子となって、父子として家督を相続する場合が多くあったためです。
まず、伊勢国 桑名藩主となった本多忠勝のあとを本多忠政が継ぎます。
本多忠政の長男・本多忠刻は、徳川秀忠の娘・千姫(天樹院)を正室としますが、その男子・幸千代は早世します。
同じく、本多忠政の二男・本多政朝は、姫路藩主となりますが、死去した際、その長男・本多政長と次男・本多政信が幼かったので、政朝のいとこ・本多政勝(父・忠政の弟・本多忠朝の二男)が養嗣子となり、政長と政信は政勝の次ということで政勝の養子になります。
本多政勝は、大和国 郡山藩主となり、この二人の養子の他、実子である本多勝行、本多政利、本多忠英をもうけました。
実子の長男・本多勝行は、父・本多政勝より先に、十六歳で死去します。
本多政勝の死後、その遺領十五万石は、養子の本多政長が九万石、実子の本多政利が六万石と幕府が調停しましたが、政利はすべてを相続できない不満から政長を毒殺してしまい、播磨国 明石藩、陸奥国 大久保藩に転封となりますが、問題が多くやがて幽閉されます。
郡山藩は、毒殺された本多政長の養子・本多忠国(安祥松平家宗家の徳川家康の曾孫)が継ぎ、その後、播磨国 姫路藩に転封となりました。この流れが宗家となります。
本多政勝の三男・本多忠英は、父・政勝の養子である本多政信の養子となって大和国 郡山新田藩を継ぎ、
播磨国 山崎藩に転封となったのちは、宗家の本多忠国の補佐に努めました。
本多氏を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光継の娘(明智氏)は、斎藤利賢(美濃斎藤氏)の継室へ
- 春日局(美濃斎藤氏)の養子・お振の方は、徳川家光(安祥松平家宗家)の側室へ
- 松平信康(安祥松平家宗家)の娘・熊姫(妙光院)は、本多忠政(本多氏)の妻へ
本多氏の家系図の範囲は、本多忠勝(1548年生)から、本多忠英(1647年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、本多氏の家系と他家との結びつきの例です。
- 本多忠政の妻は、松平信康(安祥松平家宗家)の二女・熊姫(妙光院)
- 本多忠刻の正室は、徳川秀忠(安祥松平家)の娘・千姫(天樹院)
- 本多忠国の正室は、池田綱政(池田氏)の娘・振
- 本多忠平の妻は、池田光政(池田氏)の娘・奈阿(慈雲院)
伊勢国 神戸(かんべ)氏
織田信長が北伊勢に侵攻して和睦し、信長の三男・織田信孝が養子に入った神戸具盛の家系です。
神戸氏は、北畠氏と結んで勢力を伸ばした家系ですが、神戸具盛の死去で絶家となりました。
神戸氏を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光綱(明智氏)の娘・御ツバキは、織田信長(勝幡織田氏)の側室へ
- 織田信長の三男・織田信孝(勝幡織田氏)は、神戸具盛(神戸氏)の養子へ
神戸氏の家系図の範囲は、神戸具盛(1600年死去)の父・神戸長盛から、織田信孝の子の世代までです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、神戸氏の家系と他家との結びつきの例です。
- 神戸具盛の養子は、織田信長(勝幡織田氏)の三男・織田信孝
- 神戸具盛の妻は、蒲生定秀(蒲生氏)の娘
信濃国 小笠原氏
徳川家康の長男・松平信康の長女・登久姫が正室となった小笠原秀政の家系です。
小笠原氏は、武田信玄に信濃国を追われ、本能寺の変後、小笠原秀政の父・小笠原貞慶は徳川家康に仕えるため秀政を人質として送りましたが、秀政を預かった石川数正が秀政を連れたまま豊臣秀吉のもとへ出奔してしまったため貞慶父子は秀吉に仕え、やがて秀吉の仲介で家康と和睦し、秀政は家康の孫娘・登久姫を正室に迎えます。
こうして信濃国 松本藩主となった小笠原秀政の男子から三つ系統を出し、また能見松平家に養子にはいった松平重直も大名となります。
- 長男・小笠原忠脩は、大坂の陣で戦死しますが、その子・小笠原長次は、播磨国 龍野藩主、豊後国 中津藩主となります
- 二男・小笠原忠真は、兄・小笠原忠脩が大坂の陣で戦死したため、宗家の家督を相続し、信濃国 松本藩主、播磨国 明石藩主、豊前国 小倉藩主となります
- 三男・小笠原忠知は、豊後国 杵築藩主、三河国 古田藩主となります
- 四男・松平重直は、能見松平家の養子となり、豊後国 高田藩主となります
小笠原氏を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光継の娘(明智氏)は、斎藤利賢(美濃斎藤氏)の継室へ
- 春日局(美濃斎藤氏)の養子・お振の方は、徳川家光(安祥松平家宗家)の側室へ
- 松平信康(安祥松平家宗家)の娘・登久姫(峯高院)は、小笠原秀政(小笠原氏)の妻へ
小笠原氏の家系図の範囲は、小笠原秀政(1569年生)から、小笠原真方(1652年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、小笠原氏の家系と他家との結びつきの例です。
- 小笠原秀政の正室は、松平信康(安祥松平家宗家)の長女・登久姫(峯高院)
- 小笠原忠脩の正室は、本多忠政(本多氏)の二女・亀姫(円照院)
- 小笠原忠真の正室は、本多忠政(本多氏)の二女・亀姫(円照院、再婚)
飛騨国 姉小路(あねがこうじ)氏
美濃国の斎藤道三の娘が嫁いだ、隣国飛騨国の姉小路頼綱の家系です。
もともと藤原氏系の公家で飛騨国の国司であった姉小路家の内紛に乗じて、戦国大名の三木良頼が姉小路家を乗っ取り、これを継承しました。
飛騨国は、甲斐国の武田信玄、越後国の上杉謙信、美濃国の織田信長と領域を接し、領内は武田方勢力と上杉方勢力が存在していましたが、信玄と謙信の死後、姉小路良頼の子・姉小路頼綱は、織田信長と同盟を結び、信長の死後、飛騨国を統一しました。
しかし、賤ケ岳の戦い後、羽柴秀吉は越中国の佐々成政とその同盟者である姉小路頼綱を追討し、頼綱は飛騨国から追放されました。
姉小路頼綱には六人の男子がいましたが、四人は非業の死を遂げ、二人が生き残りました。
- 長男・姉小路宣綱は、謀反の疑いで父・頼綱に殺されます
- 二男・姉小路秀綱は、羽柴秀吉の追討を受けた際に自害します
- 三男・姉小路季綱は、おじ・鍋山顕綱の養子となりますが、羽柴秀吉軍の追討をうけ、土民により殺されます
- 四男・三木直綱は、羽柴秀吉の追討を逃れて、のちに徳川義直に仕えて尾張藩士となり、その子・遠藤慶利は、美濃国 八幡藩主となりました
- 五男・小島基頼は、父・姉小路頼綱と行動を共にしていた小島時光の養子となりますが、羽柴秀吉の追討を受けた際、死去します
- 六男・三木近綱は、羽柴秀吉の追討を逃れて、のちに徳川家康に近づき、大坂の陣を戦って、江戸幕府の旗本となります
姉小路氏を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光継(明智氏)の娘・小見の方は、斎藤道三(美濃斎藤氏道三流)の正室へ
- 斎藤道三(美濃斎藤氏道三流)の娘は、姉小路頼綱(姉小路氏)の妻へ
姉小路氏の家系図の範囲は、姉小路良頼(1572年死去)から、遠藤慶利(1609年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、姉小路氏の家系と他家との結びつきの例です。
- 姉小路頼綱の妻は、斎藤道三(美濃斎藤氏道三流)の娘
美濃国 土岐氏
斎藤道三が滅ぼした美濃国の守護の家系です。
土岐氏は、この家系図内では、二度の他家を巻き込んだ家督相続争いを経て、斎藤道三に美濃国の実権を奪われて没落します。
土岐成頼は、長男・土岐政房を廃嫡して四男・土岐元頼を後継にしようとし、政房が近江国の京極氏、尾張国の織田氏、越前国の朝倉氏の支援を得て勝利します。
しかし、こんどは土岐政房が、嫡男・土岐頼武の廃嫡して二男・土岐頼芸を後継にしようとし、頼武は朝倉氏の支援を得て勝利しましたが、頼芸を支持する美濃国の小守護代・長井長弘に敗れ、勝利した頼芸も、やがて長弘の家臣・松波庄五郎の子で美濃国の戦国大名となった斎藤道三によって追放されます。
土岐頼芸は、美濃国を追放されたのち、斎藤道三の死後も諸国で生き延び、その子孫は、頼芸の子・土岐頼次とその子・土岐頼泰、頼芸の孫・土岐持益が江戸幕府の旗本となりました。
土岐氏を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光継(明智氏)の娘・小見の方は、斎藤道三(美濃斎藤氏道三流)の正室へ
- 斎藤道三(美濃斎藤氏道三流)の側室・深芳野は、その前夫が土岐頼芸(土岐氏)
土岐氏の家系図の範囲は、土岐成頼(1442年生)から、遠藤慶利(1609年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、土岐氏の家系と他家との結びつきの例です。
- 土岐頼芸の側室・深芳野は、斎藤道三(美濃斎藤氏道三流)の側室へ
- 土岐頼純の正室は、斎藤道三(美濃斎藤氏道三流)の娘・帰蝶
美濃国 美濃斎藤氏(道三流)
美濃国を実権を守護の土岐氏から奪い、美濃国の戦国大名となった斎藤道三の家系です。
斎藤道三はその長男・斎藤義龍と戦って敗れますが、その子・斎藤龍興は織田信長に敗れ、美濃国は信長の統治下に入ります。
美濃斎藤氏道三流の家系図のなかで、江戸時代まで生き残ったことがわかるのは、斎藤道三の男子・斎藤利治の三人の男子です。
- 斎藤義興は、父・斎藤利治が本能寺の変で明智軍に殺害されたのち、本能寺で死去した織田信忠の嫡男・織田秀信に仕え、関ヶ原の戦いでは西軍として池田輝政と交戦しましたが、のちにその輝政に岡山藩士として召し抱えられました
- 斎藤市郎左衛門は、兄・斎藤義興と同様に、織田秀信に仕え、関ヶ原の戦いで池田輝政に敗れた後、徳川家康の孫でのちに播磨国 姫路藩主となる松平直基に仕えました
- 斎藤徳元は、織田信長、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは西軍として岐阜城を守備しましたが落城寸前に脱出し、一時若狭国の京極忠高に身を寄せましたが、その後俳人として江戸・浅草に住み、義理の姉妹(徳元の姉妹の夫・斎藤利宗の姉妹)である春日局とは交流がありました
美濃斎藤氏道三流を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光継(明智氏)の娘・小見の方は、斎藤道三(美濃斎藤氏道三流)の正室へ
美濃斎藤氏道三流の家系図の範囲は、斎藤道三(1494年生)から、斎藤徳元(1559年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、美濃斎藤氏道三流の家系と他家との結びつきの例です。
- 斎藤道三(美濃斎藤氏道三流)の正室は、明智光継(明智氏)の娘・小見の方
- 斎藤道三(美濃斎藤氏道三流)の側室・深芳野の前夫は、土岐頼芸(土岐氏)
- 斎藤道三(美濃斎藤氏道三流)の娘は、斎藤利三(美濃斎藤氏、春日局の父)の正室へ
美濃国 美濃斎藤氏
江戸幕府第三代将軍・徳川家光の乳母で、江戸城大奥の礎を築き、女性政治家としても徳川政権に寄与した春日局の生家の家系です。
斎藤利賢は斎藤道三・義龍父子に仕えましたが、利賢の子・斎藤利三は、義龍から織田信長へ寝返った稲葉通良の家臣となりましたが喧嘩別れし、父・利賢の継室が明智光秀のおばであり、利三のおばが明智光秀のおじの妻で、明智光秀と縁戚関係にあったことから光秀に仕えました。利賢は本能寺の変のあとの山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ斬首となりました。この斎藤利三の子が春日局です。
斎藤利三の三男で、春日局の兄の斎藤利宗は、父同様、山崎の戦いで敗れましたが、細川忠興御預けとなり、その後羽柴秀吉に許され、加藤清正に仕えた後、春日局の口利きで江戸幕府の旗本として生き残りました。
美濃斎藤氏を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光安(明智氏)の妻は、斎藤利匡(美濃斎藤氏)の娘
美濃斎藤氏の家系図の範囲は、斎藤利匡(1586年死去の斎藤利賢の父)から、春日局(1579年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、美濃斎藤氏の家系と他家との結びつきの例です。
- 斎藤利匡の娘は、明智光安(明智氏)の妻へ
- 斎藤利賢の継室は、明智光継(明智氏)の娘
- 斎藤利三の正室は、斎藤道三(美濃斎藤氏道三流)の娘
- 斎藤利三の娘・福(春日局)は、稲葉重通(美濃稲葉氏)の養子へ
美濃国 美濃稲葉氏
美濃国の守護・土岐頼芸の側室で、のちに斎藤道三の側室となって斎藤義龍を生んだ深芳野の生家の家系で、また、春日局の養子先・婚姻先の家系でもあり、子孫は譜代大名として栄えました。
稲葉良通(一鉄)は、姉・深芳野の前夫・土岐頼芸、後夫・斎藤道三、甥・斎藤義龍、に仕えたのち織田信長に乗り換え、本能寺の変後、外孫(娘の子)の福(春日局)を稲葉家に引取り成人するまで育てました。
稲葉良通(一鉄)の正室の子・稲葉貞通は、織田信長、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは西軍から東軍に寝返って豊後国 臼杵藩主となり、その子孫は臼杵藩主を継ぎました。
稲葉良通(一鉄)の側室の子・稲葉重通は、福(春日局)と稲葉正成を養子に迎え、この二人は夫婦となり、正成は下野国 真岡藩主、福(春日局)との子・稲葉正勝は、真岡藩主・小田原藩主となります。春日局は、徳川家光の乳母に志願したため、稲葉正成とは離縁となりました。
美濃稲葉氏を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光安(明智氏)の妻は、斎藤利匡(美濃斎藤氏)の娘
- 斎藤利三(美濃斎藤氏)の娘・福(春日局)は、稲葉重通(美濃稲葉氏)の養子へ
美濃稲葉氏の家系図の範囲は、稲葉通以(1515年生の稲葉良通の祖父の養父)から、稲葉正休(1640年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、美濃稲葉氏の家系と他家との結びつきの例です。
- 稲葉通則の娘・深芳野は、土岐頼芸(土岐氏)の側室へ
- 稲葉良通の正室は、三条西実枝(三条西家)の娘
- 稲葉貞通の正室は、斎藤道三(美濃斎藤氏道三流)の娘
- 稲葉重通の養子は、斎藤利三(美濃斎藤氏)の娘・福(春日局)
- 春日局の養子・お振の方(自証院)は、徳川家光(安祥松平家宗家)の側室へ
美濃国 明智氏
明智光秀の家系です。この家系は非業の死を遂げたものが目立ちます。
明智光継は、斎藤道三に仕え、その子・明智光綱は、道三に明智城を攻められ討死します。明智光綱の子が明智光秀です。
明智光継の子・明智光安は、兄・明智光綱の死後、その子・明智光秀を後見しますが、斎藤道三がその子・斎藤義龍と戦った際、道三方に立ったので、義龍に明智城を攻められ自害します。
明智光継の子・明智光久も、明智光安とともに、斎藤義龍に攻められ、明智城落城時に死去します。
明智光秀は斎藤道三、足利義昭、織田信長に仕えますが、本能寺の変で織田信長を討ったのち、羽柴秀吉に敗れて自害します。
明智光秀がその主君・織田信長を討ったのちに敗れ、光秀の子にとっては過酷な状況となりました。
- 長女・倫子は、いとこ違い(父・明智光秀のおじ・明智光安の男子)・明智秀満の妻となりますが、光秀が敗れた後、坂本城で夫に刺殺され、夫も自害します
- 二女は、いとこ違い(祖父・明智光綱の弟・明智光久の男子)・明智光忠の妻となりますが、光忠は明智光秀が敗れたのち、坂本城で自害します
- 三女・玉子は、細川忠興の妻となり、本能寺の変では生き延びましたが、関ヶ原の戦いで西軍の石田三成の人質となることを拒否して、大坂の細川屋敷で爆死します
- 四女は、織田信長の甥・津田信澄の妻となりますが、本能寺の変後、夫・信澄は明智光秀の娘婿であることから、神戸信孝に討たれ晒し首とされました
- 長男・明智光慶は、明智光秀が敗れた後、坂本城を攻められ自害します
- 三男・明智乙寿丸は、父・明智光秀とともに死去します
明智氏の家系図の範囲は、明智光継(1468年生)から、明智光近(1540年生の明智光忠の子)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、明智氏の家系と他家との結びつきの例です。
- 明智光継の正室は、武田信豊(若狭武田氏)の娘
- 明智光継の娘・小見の方は、斎藤道三(美濃斎藤氏道三流)の正室へ
- 明智光綱の妻は、武田信豊(若狭武田氏)の娘・お牧の方
- 明智光秀の三女・玉子は、細川忠興(細川氏和泉上守護家)の正室へ
近江国 浅井氏
豊臣秀吉の側室・淀殿、京極高次の正室・初(常高院)、徳川秀忠の継室・江(崇源院)の浅井三姉妹の生家の家系です。
浅井家は、近江国守護・京極氏の家臣でしたが、京極家中の御家騒動をきかっけに、浅井亮政、浅井久政、浅井長政の三代が戦国大名として台頭しますが、やがて織田信長によって滅びました。
浅井亮政は、京極家の御家騒動に介入して京極高清を追い出して実権を握りましたが、その後、南近江の守護・六角定頼と対立しました。
浅井亮政の子・浅井久政は、六角氏に押され従属姿勢をとりながら越前国の朝倉氏と連携を模索しますが、亮政の子・浅井長政が野良田の戦いで六角氏に大勝すると、家臣から強制的に隠居させられ、長政が家督を継ぎました。
浅井長政は、美濃国を支配した織田信長と同盟し、信長の妹・お市の方を妻に迎えて六角氏からの自立を図りますが、信長が朝倉氏を攻めると、浅井氏は朝倉氏とも同盟していたため家中は割れ、織田氏との同盟を破棄して金ヶ崎の戦いで織田軍の背後を襲います。その後、浅井・朝倉軍は姉川の戦いで織田軍に敗れ、信長が将軍・足利義昭を京から追放したのちに浅井氏の小谷城に侵攻して、浅井久政・長政親子は自害し、浅井氏は滅びました。
浅井長政の妻・お市の方とその三人の娘は、織田家に預けられ、その後、長女・茶々(淀殿)は豊臣秀吉の側室へ、二女・初(常高院)は、京極高次の正室へ、三女・江(崇源院)は、佐治一成、羽柴秀勝の妻を経て徳川秀忠の継室となりました。
浅井氏の家系図には、お市の方の三人の娘を支えた別の三姉妹がいます。
浅井亮政の養子となり、亮政の娘・鶴千代と結婚した田屋明政の三人の娘の海津局、饗庭局(あえば の つぼね)、近江局です。
田屋明政は、養嗣子でしたが、家督をめぐって浅井久政に敗れ、苗字を「田屋」に戻しました。
海津局は、父・明政の養子の浅井政高と結婚し、茶々(淀殿)の侍女として仕え、夫・政高は大坂の陣で豊臣方として自害しますが、海津局は、江(崇源院)と徳川秀忠の娘で豊臣秀頼の正室の千姫に従って大坂城を脱出し、江戸でも江(崇源院)と千姫に仕えました。
饗庭局(あえば の つぼね)は、茶々(淀殿)の乳母となり、関ヶ原の戦いの前哨戦で、初(常高院)の夫・京極高次が当初西軍に属しながら大津城に籠もって東軍に寝返った際、西軍の使者のひとりとして大津城に赴きこれを開城させ、高次の一命は助けられた。饗庭局はその後、大坂夏の陣で豊臣方として自害しました。
近江局は、江(崇源院)に仕えました。
浅井氏を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光綱(明智氏)の娘・御ツバキは、織田信長(勝幡織田氏)の側室へ
- 織田信秀(勝幡織田氏)の娘・お市の方は、浅井長政(浅井氏)の継室へ
浅井氏の家系図の範囲は、浅井亮政(1491年生)から、三好直正(1560年生の浅井政高の子)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、浅井氏の家系と他家との結びつきの例です。
- 浅井久政の娘・京極マリアは、京極高吉(京極氏)の妻へ
- 浅井長政の継室は、織田信秀(勝幡織田氏)の五女・お市の方
- 浅井長政の長女・茶々(淀殿)は、豊臣秀吉(豊臣秀吉の家系)の側室へ
- 浅井長政の二女・初(常高院)は、京極高次(京極氏)の正室へ
- 浅井長政の三女・江(崇源院)は、佐治一成(佐治氏)の正室へ
近江国 蒲生氏
蒲生氏は、近江国の守護大名・六角氏の家臣で、六角氏、織田信長、豊臣秀吉に仕えますが、関ヶ原の戦いでは東軍につき陸奥国 会津藩主となります。しかし、嗣子がなかったため、蒲生氏はまもなく断絶します。
蒲生定秀は、北近江の浅井亮政との戦いに功を挙げ、主君・六角義賢が三好氏を京都から追い出し上洛した際には、これに同行しました。
蒲生定秀の子・蒲生賢秀は、六角義賢が織田信長に敗れたのちは信長の家臣となり、本能寺の変の際には、明智光秀から味方すれば近江半国という破格の条件を示されましたがこれを拒否しました。
蒲生賢秀の子・蒲生氏郷は、本能寺の変後豊臣秀吉に仕え、キリシタンとなりました。
蒲生氏郷の子・蒲生秀行は、家臣団の対立である蒲生騒動が原因で、豊臣秀吉により会津二十九万石から宇都宮十八万石に移封され、関ヶ原の戦いではその遺恨から東軍につき、その軍功から会津に復帰します。
蒲生賢秀の子・蒲生忠郷は、母が徳川家康の三女・振姫(正清院)でしたが、嗣子なく二十六歳で死去しました。
蒲生忠郷の弟・蒲生忠知は、兄・蒲生忠郷が嗣子なく死去して本来なら断絶のところ、母が徳川家康の娘であるため、伊予国 松山藩主となりましたが、こちらも嗣子なく三十一歳で死去し、ここに蒲生氏は断絶となりました。
蒲生氏を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光綱(明智氏)の娘・御ツバキは、織田信長(勝幡織田氏)の側室へ
- 織田信長(勝幡織田氏)の二女・相応院は、蒲生氏郷(蒲生氏)の正室へ
蒲生氏の家系図の範囲は、蒲生定秀(1508年生)から、蒲生忠知(1604年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、蒲生氏の家系と他家との結びつきの例です。
- 蒲生定秀の娘は、神戸具盛(神戸氏)の正室へ
- 蒲生賢秀の娘・とら(三条殿)は、豊臣秀吉(豊臣秀吉の家系)の側室へ
- 蒲生氏郷の正室は、織田信長(勝幡織田氏)の二女・相応院
- 蒲生秀行の妻は、徳川家康(安祥松平家宗家)の三女・振姫(正清院)
近江国 京極氏
近江国の京極氏をさかのぼると、足利尊氏に仕え、近江国の守護であった佐々木道誉(京極高氏)であり、その百三十年後に再び近江国の守護となりますが、京極氏の家督相続争いに介入した浅井長政に敗れて近江の支配権を失います。
しかしその後、織田信長の人質となっていた京極高次が豊臣秀吉に仕えて戦功があったことから大名となり、その子孫は近世外様大名の若狭京極家と丹後京極家として生き残りました。
同じ近江国の浅井家からは、キリスト教布教で有名な京極マリアが京極高吉の妻として、浅井長政の三姉妹のひとり・初(常高院)が京極高次の正室として、京極家に入っています。
京極氏の家系図の最初のひとりである京極高清は、京極氏の家督相続争い(京極騒動)の当事者として勝利して家督を継ぎましたが、今度は高清の長男・京極高延と高延を推す浅井亮政の高延派と、高清自身が推す二男・京極高吉の高吉派が対立します。
京極高清は、対立した京極高延、浅井亮政と和解して死去しますが、高延は弟・京極高吉とは対立を続け、高吉が頼った六角義賢と戦って敗れた後、消息不明となります。
京極高吉は、南近江の六角氏と結んで、浅井亮政の孫・浅井長政と戦いますがこれに敗れ、京極氏は近江の支配権をここですべて失い、妻・京極マリアとキリスト教の洗礼をうけた数日後に死去します。
京極高吉の長男・京極高次は、父・高吉が将軍・足利義昭擁立に尽力し、義昭と織田信長が対立したため、人質として信長に送られていましたが、そのまま信長に仕えました。
本能寺の変後は、妹・竜子の夫で若狭国の武田元明とともに明智光秀につきましたが、光秀は羽柴秀吉に敗れたため、高次は柴田勝家に匿われ、賤ケ岳の戦いでは柴田軍に従軍しました。本来ここで殺されるところ、秀吉の側室となった妹・竜子の嘆願で秀吉に仕え、九州平定の功で、近江国 大溝城一万石の大名となりました。関ヶ原の戦いでは、西軍から東軍に寝返って大津城で籠城し、西軍の大軍を関ヶ原に向かわせなかった功績で若狭一国を得、小浜藩主となりました。
京極高次の子孫は、長男・京極忠高が大坂の陣の功績で、さらに越前国 敦賀郡を加増され、さらに京極氏の旧領である出雲・隠岐へと加増転封され松江藩主となりましたが、嗣子なく急死したため、本来改易のところ、高次の功績により、末期養子の京極高和が讃岐国 丸亀藩へ移封減封となりました。
京極高吉の二男・京極高知は、早くから豊臣秀吉に、次いで徳川家康につき、関ヶ原の戦いでは西軍・織田秀信の岐阜城の戦い、関ヶ原の本戦に参戦して、戦後に丹後国一国を得て宮津藩主となりました。
京極高知は、子の京極高広に丹後国 宮津藩七万八千石を、子の京極高三に丹後国 田辺藩三万五千石を、養子の京極高通に丹後国 峰山藩一万石を継がせました。
京極氏を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光綱(明智氏)の娘・御ツバキは、織田信長(勝幡織田氏)の側室へ
- 織田信秀(勝幡織田氏)の娘・お市の方は、浅井長政(浅井氏)の継室へ
- 浅井久政(浅井氏)の娘・京極マリアは、京極高吉(京極氏)の妻へ
京極氏の家系図の範囲は、京極高清(1460年生)から、京極高房(1655年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、京極氏の家系と他家との結びつきの例です。
- 京極高吉の妻は、浅井久政(浅井氏)の娘・京極マリア
- 京極高次の正室は、浅井長政(浅井氏)の娘・初(常高院)
- 京極高知の娘・常子は、八条宮智仁親王(皇室)の正室へ
- 京極高広の正室は、池田輝政の娘で徳川秀忠の養子の茶々姫(寿光院)
越中国 神保氏
織田信長の妹である神保・稲葉夫人が最初に嫁いだ神保氏張の家系です。
神保氏は、室町幕府の管領・畠山氏の譜代家臣で、越中国の守護代でしたが、神保慶宗が畠山氏からの独立を目指したため、畠山氏と越後国の戦国大名・長尾為景(上杉謙信の父)による討伐をうけて壊滅状態となります。
神保慶宗の子・神保長職は、富山城(富山県富山市)を築いて神保氏を再興しようと上杉謙信に従属しますが、家中が武田・一向宗派と上杉派に分裂し、長職の子・神保長住は越中を出奔して織田信長に仕えます。
上杉謙信の死後、織田信長は、神保長住に越中を侵攻させたが、長住の旧臣・小島職鎮に富山城を奪われて幽閉され、まもなく織田軍が富山城を奪還しましたが、長住は信長によって追放され、越中国守護代の神保氏は滅びました。
以上の神保氏の経緯は、家系図には入っていません。
神保氏の家系図の最初に書いた神保氏張は、神保氏の庶流・神保氏重の子で、神保長職とは敵対関係にありましたが、上杉謙信の死後は、織田信長のもとで、長職の子・神保長住と越中・能登平定に協力しました。
神保氏張は、本能寺の変後、佐々成政に仕えて小牧・長久手の戦いでは徳川家康方についたため、羽柴秀吉方の前田利家に敗れましたが、成政が九州征伐で功を挙げ肥後一国を得たので、これに従いました。しかし、成政は、国人一揆勃発の責任をとり改易・切腹となったので、氏張は浪人を経て徳川家康に仕え、下総国 香取郡に二千石を得、その子孫は旗本として存続しました。
神保氏を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光綱(明智氏)の娘・御ツバキは、織田信長(勝幡織田氏)の側室へ
- 織田信秀(勝幡織田氏)の娘・「神保・稲葉夫人」は、神保氏張(神保氏)の正室へ
神保氏の家系図の範囲は、神保氏張(1528年生)から、神保氏長(氏張の子)までです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、神保氏の家系と他家との結びつきです。
- 神保氏張の正室は、織田信秀(勝幡織田氏)の娘・「神保・稲葉夫人」
- 神保氏張の正室「神保・稲葉夫人」は、稲葉貞通(美濃稲葉氏)の継室へ
越前国 柴田氏
織田信長の家老・柴田勝家の家系です。
柴田勝家の出身は、尾張国愛知郡村上村ですが、織田信長が朝倉氏を滅亡させ、その後の越前国の一向一揆を平定して以来、北ノ庄城を与えられて越前国の戦国大名となりました。
本能寺の変後、羽柴秀吉と対立して賤ヶ岳の戦いで敗れ、妻・お市とともに自害しました。
柴田勝家の実子の柴田勝忠、柴田勝里は、羽柴秀吉により処刑されました。
柴田勝家の養子で生き残ったのは、柴田勝政の子・柴田勝重と佐久間勝之です。
柴田勝政は、賤ケ岳の戦いで討死しますが、その子・柴田勝重は、北ノ庄城落城時、母方の祖父・日根野高吉のもとに逃れ、のちに徳川家康に仕えて旗本となり、柴田家の家名を残します。
佐久間勝之は、佐々成政の養子となり、のちに信濃国 長沼藩主となりました。
柴田氏を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光綱(明智氏)の娘・御ツバキは、織田信長(勝幡織田氏)の側室へ
- 織田信秀(勝幡織田氏)の娘・お市の方は、柴田勝家(柴田氏)の正室へ
柴田氏の家系図の範囲は、柴田勝家(1522年生)から、柴田勝重(1579年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、柴田氏の家系と他家との結びつきです。
- 柴田勝家の正室は、織田信秀(勝幡織田氏)の娘・お市の方
- 柴田勝豊の正室は、稲葉貞通(美濃稲葉氏)の娘
若狭国 武田氏
明智光秀の母・お牧の方の生家の家系です。
若狭武田氏は、安芸武田氏の武田信繁の嫡男・武田信栄(たけだ のぶひで)が、有力守護大名の勢力を削ごうとしていた将軍・足利義教から、丹後国・若狭国の守護・一色義貫誅殺の密命を受け、これを実行した功績により、若狭国を与えられたことが起源です。
若狭武田氏は、室町幕府の信頼が厚く、文化人との交流もさかんでした。
武田氏の家系図は、武田信栄の養子となった信栄の弟・武田国信の二男・武田元信から始めました。
武田元信は、第十一代将軍・足利義澄を擁した管領・細川政元を支援して上洛し、足利義稙の上洛を退けますが、政元が暗殺されて大内義興、細川高国によって義稙が将軍に復帰すると、反大内であった元信は若狭に退きました。その後、足利義稙が細川高国と対立して出奔し、足利義澄の子・足利義晴が新将軍となると、元信は再び上洛して復権を果たします。
武田信元の家督を継いだ二男・武田元光は、将軍・足利義晴を支援して二度上洛します。
細川晴元が足利義晴の弟・足利義維(あしかが よしつな)を擁して細川高国に対して挙兵すると、義晴・高国を支援して上洛しましたが「桂川原の戦い」で敗れ、義晴・高国とともに近江に逃亡しました。
細川高国が細川晴元に敗れて死去すると、晴元は、足利義晴、武田元光と和解しました。
しかし、若狭国領内では、家臣・粟屋元隆が反乱を起こすなど、安定しませんでした。
武田元光の家督を継いだ子の武田信豊は、義兄・細川晴元(妻の姉の夫)の要請で、河内国の三好長慶を攻めるが敗れ、さらに晴元の要請で、三好長慶の家臣・松永長頼を討つべく、信豊の家臣・逸見昌経(へんみ まさつね)を丹波国に出兵させますがこれも敗れます。
これに加え、信豊は子の武田信由に家督を譲ろうとしたため、信豊の長男・武田義統(たけだ よしずみ)と家督相続争いとなり、一時近江国に逃れましたが、和睦して帰国しました。
武田信豊と家督相続争いをした信豊の長男・武田義統は、父・信豊を近江国に追放して家督を継ぎましたが、領内の反乱鎮圧に越前国の朝倉義景の支援を受け、これが若狭国の朝倉支配の一因となりました。
義兄(妻の兄)で将軍の足利義輝が永禄の変で暗殺され、その弟・足利義昭が上洛を目指して若狭国を訪れたが、信豊に出兵の余裕はありませんでした。
武田義統の家督を継いだ武田元明は、朝倉義景が若狭国に侵攻したため、越前国の一乗谷に移住させられ、若狭国は朝倉氏の支配下となりました。
織田信長が朝倉義景を滅ぼすと、若狭国は信長家臣の丹羽長秀の所領となり、武田元明は長秀の与力となりました。
本能寺の変後、武田元明は明智光秀につきましたが、光秀が羽柴秀吉に破れると、近江国海津の法雲寺で謀殺され、若狭武田氏は滅亡しました。
武田元明の子・津川義勝は、おじ・京極高次(母・竜子の兄弟)に重臣として仕えました。
武田氏を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光綱(明智氏)の妻は、武田信豊(武田氏)の娘・お牧の方(明智光秀の母)
武田氏の家系図の範囲は、武田元信(1461年生)から、津川義勝(1562年生の武田元明の子)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、武田氏の家系と他家との結びつきの例です。
- 武田元光の妻は、細川澄元(細川氏京兆家)の娘
- 武田信豊の娘・お牧の方は、明智光綱(明智氏)の妻へ
- 武田義統の正室は、足利義晴(足利将軍家)の娘
- 武田元明の正室は、京極高吉(京極氏)の娘・竜子
山城国 皇室
皇室の家系図は、第百五代の後奈良天皇から始めました。
後奈良天皇の第一皇子が正親町天皇で、後奈良天皇の崩御により践祚しました。織田信長は、正親町天皇保護の大義名分で上洛して逼迫していた朝廷の財政を回復させ、浅井・朝倉との戦い、足利義昭との戦い、石山本願寺との戦いでは、その講和を正親町天皇の勅命により実現させました。
豊臣秀吉も、御料地や黄金を献上して正親町天皇との相互関係を深め、自らの後ろ盾としました。
後奈良天皇の第三皇子・覚恕は、明智光秀が織田信長の命で比叡山焼き討ちをおこなったときの比叡山 天台座主で、焼き討ち後は、織田信長と敵対した甲斐国の武田信玄を頼りました。
正親町天皇の第一皇子・誠仁親王(さねひと しんのう)は、織田信長が献上した二条新御所に住みました。高齢の正親町天皇は誠仁親王への譲位をおこなう時期でしたが、攘夷を挙行する費用がなく、これを織田信長に働きかけましたが、信長は消極的でした。
本能寺の変で織田信長の長男・織田信忠が二条新御所に立てこもった際は、誠仁親王は明智光秀から禁裏に逃げることを許されました。
豊臣秀吉は正親町天皇の譲位に積極的でしたが、誠仁親王は正親町天皇に先立って薨去しました。
誠仁親王の第一皇子・後陽成天皇は、高祖父・正親町天皇の譲位により践祚しました。
後陽成天皇の時代に、足利義昭が征夷大将軍職を朝廷に返上して室町幕府が滅亡し、聚楽第行幸をおこない、豊臣政権の成立を天下に知らしめることとなりました。
豊臣秀吉の推す第一皇子・良仁親王を皇位継承者とし、秀吉の死後、弟の八条宮智仁親王への譲位を望みましたが、徳川家康に反対され、第三皇子の政仁親王(後水尾天皇)を皇位継承者としました。
徳川幕府が開かれると、幕府は朝廷の権威の抑制を図ったため、後陽成天皇と幕府の意向の衝突が目立ちます。
宮中女官の密通事件(猪熊事件)の処分をめぐって後陽成天皇は極刑を望みましたが、幕府は配流にとどめ、政仁親王への徳川和子の入内も、後陽成天皇は当初反対しましたが、結局これに応じました。
後陽成天皇は、退位に反対する幕府を押し切って、後水尾天皇に譲位しましたが、後陽成天皇が望んだ皇位継承者ではなかったため、後水尾天皇とは終生不仲でした。
大坂の陣では、後陽成上皇は、徳川家康に和議を勧告しましたが、家康はこれを拒否しました。
後陽成天皇の第三皇子・後水尾天皇は、父・後陽成天皇の譲位により践祚しました。
後水尾天皇の時代に、幕府の朝廷統制は強まり、禁中並公家諸法度が公布され、幕府の政策施策に幕府の承認が必要となりました。また、徳川家康の孫・和子の入内の際に、後陽成天皇と寵愛の女官・四辻与津子のあいだに皇子・皇女がいたことが問題となり、天皇はこれに憤慨して譲位しようとしましたが、幕府は与津子の出家を強要しました。
後水尾天皇は、将軍・徳川家光が行幸を目的に大改修した二条城に行幸をおこない、大御所・徳川秀忠と家光が上洛しました。
幕府に諮らず僧侶に紫衣を許し、これを幕府が無効とした紫衣事件後、後水尾天皇は、幕府のおこないに耐えかねて、幕府へ通告をしないまま、和子の娘・明正天皇に譲位し、その後、明正・後光明・後西・霊元の四代の天皇の時代、二十五年にわたり院政をおこないました。
後水尾天皇と和子の娘・明正(めいしょう)天皇は、父・後水尾天皇の譲位を受けて践祚し、八百五十九年ぶりの女帝の誕生となりましたが、皇子誕生の折には譲位することが想定され、在位中は後水尾上皇による院政が敷かれたため実権をもつことはありませんでした。
徳川家は目的通り天皇の外戚となりましたが、公家や諸大名が明正天皇に影響力を持つことを警戒して、摂政・二条康道の関白への転任を認めないことで女帝の親政を否定し、後光明天皇に譲位して太政天皇となったのちも、厳しく明正天皇と外部を隔離しました。
明正天皇の異母弟・後光明天皇は、明正天皇の譲位を受けて践祚しました。
後光明天皇は、後水尾天皇と園光子とのあいだにうまれた第四皇子です。後水尾天皇の中宮・東福門院(和子)は、ふたりの皇子をもうけましたがいずれも早世したので、後光明天皇をみずからの養子とすることで、夫・後水尾天皇と実家の徳川家双方の面目を立てました。
後光明天皇は、反幕府的でしたが、武芸・学問を好んで儒学、漢学を重んじ、朝儀再興に心を砕きました。
後光明天皇の異母弟・後西天皇は、後光明天皇が崩御したため、践祚しました。
このときすでに後光明天皇の養子となって儲君となっていた識仁(さとひと)親王(霊元天皇)が成長するまでの繋ぎとしての天皇でしたので、識仁親王が十歳になると譲位しました。
後西天皇の異母弟・霊元天皇は、後西天皇の譲位を受けて践祚しました。
後水尾法皇の崩御後は直接政務をとり、皇室再興をめざして、親幕派の公家を冷遇しました。
後水尾法皇の遺命では儲君の予定の第一皇子・済深法親王を強引に出家させ、関白となる予定の近衛基熙
は自らに批判的だとして、右大臣・一条冬経に兼任させ、意中の皇位継承者・朝仁親王(東山天皇)に長く中断していた皇太子の称号を復活させましたが、将軍・徳川綱吉は調停を尊重したので、朝幕関係は安定していました。
東山天皇に譲位して院政を開始し、長年中断していた大嘗祭を再興したさいは、幕府から認められないと通告されますが、黙殺しました。
一方、東山天皇は、近衛基熙や幕府と連携したため、霊元上皇は東山天皇とその後の中御門天皇の治世に掣肘を加えました。
しかし、東山上皇崩御後の院政再開時には、近衛家や幕府との連携に転じました。
霊元天皇の第四皇子・東山天皇は、父・霊元天皇の譲位を受けて践祚しました。
東山天皇は、両親と対立し、近衛基熙の補佐をうけて親政を遂行します。
将軍・徳川綱吉は、皇室を敬い、次の将軍・徳川家宣の正室は近衛基熙の娘・熙子であったため、この時期の朝幕関係はもっとも安定しました。
東山天皇の第五皇子・中御門天皇は、東山天皇の譲位を受け、践祚しました。
九歳であったため、当初は父・東山上皇、ついで祖父・霊元上皇が院政をおこないました。
皇室を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光継の娘(明智氏)は、斎藤利賢(美濃斎藤氏)の継室へ
- 春日局(美濃斎藤氏)の養子・お振の方は、徳川家光(安祥松平家宗家)の側室へ
- 徳川秀忠(安祥松平家宗家)の娘・和子(東福門院)は、後水尾天皇の皇后へ
皇室の家系図の範囲は、後奈良天皇(1497年生)から、閑院宮直仁親王の第二王女・蓮香院(1727年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、皇室と他家との結びつきの例です。
- 後陽成天皇の女御は、近衛前久(近衛家)の娘・近衛前子
- 後水尾天皇の皇后は、徳川秀忠(安祥松平家宗家)の娘・徳川和子
- 八条宮智仁親王の正室は、京極高知(京極家)の娘・京極常子
山城国 近衛家(公家 摂関家)
近衛家は公家の摂家であるため、戦国時代も摂政、関白、太政大臣を多く出していますが、近衛家出身の女性では、後陽成天皇の女御で後水尾天皇の生母・近衛前子、将軍・足利義晴の正室・慶寿院、義晴の子で将軍の足利義輝の正室などを出しています。
近衛尚通の長男・近衛稙家は、細川高国と対立して京を出奔した将軍・足利義稙(あしかが よしたね)に代わって将軍となった足利義昭の正室に妹・慶寿院が嫁いだことを契機に足利将軍家との関係を深めました。
足利義晴が三度近江国 坂本に動座したときも、義晴の子・足利義輝が三好長慶に追われて近江国 朽木谷に動作したときも同行し、近衛稙家の娘は義輝の正室となりました。
近衛稙家の子・近衛前久は、上杉謙信の関東平定を助けるため関白のまま越後国に下向しますが、謙信の関東平定はならず帰洛します。
永禄の変で足利義輝を殺害した三好三人衆から頼られ、足利義栄(あしかが よしひで)の将軍就任を決定づけましたが、足利義昭が織田信長と上洛すると、義昭は兄・義輝殺害に前久が関与していると疑い、朝廷から追放され、石山本願寺に移り、信長包囲網に参加しました。
織田信長が足利義昭を追放すると、信長から帰洛を許され、石山本願寺との調停にのぞみ、石山本願寺開城を信長から高く評価されました。
本能寺の変後は、羽柴秀吉から明智光秀との関係を詰問され、以後は徳川家康を頼り、小牧・長久手の戦いで家康が秀吉と和睦したのち帰洛しました。
豊臣秀吉は、近衛前久の猶子として関白となりました。
近衛前久の子・近衛信尹(このえ のぶただ)は、関白をめぐって二条昭実と口論となり(関白相論)、豊臣秀吉の関白就任のきっかけをつくりました。
豊臣秀吉の朝鮮出兵では、肥前国の名護屋城に赴き、後陽成天皇はこれを危惧して勅勘を被り、薩摩国に三年間配流となり、島津義久から厚遇を受けました。
関ヶ原の戦いでは、敗れた島津義弘の薩摩帰国に協力し、徳川家と交渉して島津家の所領安堵をとりつけました。
近衛信尹は嗣子がなかったため、家督を継いだのは、信尹の養子で、後陽成天皇の第四皇子・近衛信尋(このえ のぶひろ)でした。近衛信尋は、文化人として、兄・後陽成天皇を中心とした宮廷文化を担い、文化人の宮中への橋渡しをおこないました。
近衛信尋の子・近衛尚嗣(このえ ひさつぐ)は三十二歳で死去し、尚嗣の子・近衛基熙(基熙の母は瑤林院)が家督を継ぎました。
近衛基熙は、父・尚嗣の正室で後水尾天皇の第三皇女の女二宮に男子がなかったため、後水尾天皇の命で女二宮の養子となり、後水尾天皇の保護下で育てられました。
後水尾法皇が崩御して反幕府的な霊元天皇となると、親幕府的と見られていた近衛基熙は疎外されましたが、霊元天皇が東山天皇に譲位して院政を敷くと、関白となって東山天皇を補佐し、霊元上皇の朝廷権威復興策には親幕派としてことごとく反対しました。
将軍・徳川綱吉が男子誕生を断念して、徳川家宣を後継者とすると、近衛基熙の長女・熙子は家宣の正室であったため、朝幕関係は安定し、これを背景に豊臣秀吉以来の太政大臣となりました。
東山天皇が突如崩御し、霊元上皇が院政を再開すると再び対立しましたが、霊元上皇は、近衛基熙の子・近衛家熙の太政大臣就任と、家熙の娘・尚子の中御門天皇への入内を認めました。
近衛基熙の長男・近衛家熙は、東山天皇の関白、中御門天皇の摂政、二代続けての太政大臣を歴任し、娘・尚子が中御門天皇の女御となりました。
近衛家を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光綱(明智氏)の妻は、武田信豊(武田氏)の娘・お牧の方(明智光秀の母)
- 武田義統(武田氏)の正室は、足利義晴(足利将軍家)の娘
- 足利義晴(足利将軍家)の正室は、近衛尚通(近衛家)の娘・慶寿院
近衛家の家系図の範囲は、近衛尚通(1472年生)から、近衛脩子(1706年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、近衛家と他家との結びつきの例です。
- 近衛尚通の娘・慶寿院は、足利義晴(足利将軍家)の正室へ
- 近衛稙家の娘は、足利義輝(足利将軍家)の正室へ
- 近衛前久の娘・近衛前子は、後陽成天皇(皇室)の女御へ
- 近衛信尹の養子は、後陽成天皇(皇室)の第四皇子・近衛信尋
- 近衛信尋の娘・近衛尋子は、徳川光圀(安祥松平家宗家)の正室へ
- 近衛尚嗣の正室は、後水尾天皇(皇室)の第三皇女・女二宮
- 近衛基熙の正室は、後水尾天皇の第十五皇女・常子内親王
- 近衛基熙の長女・近衛熙子は、徳川家宣(安祥松平家宗家)の正室へ
- 近衛家熙の正室は、霊元天皇(皇室)の第二皇女・憲子内親王
- 近衛家熙の娘・近衛尚子は、中御門天皇(皇室)の女御へ
山城国 九条家(公家 摂関家)
豊臣秀吉の甥・豊臣秀勝(秀吉の姉・日秀の二男)の娘・完子が嫁いだ九条幸家の家系です。
九条家の家系図は、九条政基から始めました。
九条政基は、その兄・九条政忠と家督相続争いとなりましたが、政忠が政基擁立に奔走したおじ・唐橋在治を暗殺しようとしたため、将軍・足利義政により隠居させられ、政基が家督を継ぎました。
九条政基は右大臣、左大臣、関白を歴任しましたが、九条家の根来寺(新義真言宗、和歌山県岩出市)への借金をめぐって家司・唐橋在数を殺害してしまい、後土御門天皇の勅勘により、政基父子は出仕停止となりました。
九条政基の長男・九条尚経は、土御門天皇の勅勘を解かれたのち、関白、左大臣を歴任しました。この時期は、九条家はもっとも没落した時期でした。
九条尚経の長男・九条稙通(くじょう たねみち)は、経済的困窮のため、関白は未拝賀のまま辞任し、摂津や播磨に住みました。嗣子がなかったため、実妹・経子の孫・九条兼孝を二条家から養子に迎えました。
二条晴良の長男で九条稙通の養嗣子となった九条兼孝は、正親町天皇と後陽成天皇の二度の関白を務めました。
九条稙通の長男・九条幸家は、豊臣秀吉の未亡人・淀殿の意向で豊臣完子を正室とし、完子の母・江(崇源院)が徳川秀忠の継室となったことから、朝廷と幕府の仲介役となり、義妹・徳川和子(岳母・江の娘)の入内にも尽力しました。
後陽成天皇と後水尾天皇の関白として、父同様、二度の関白を務め、東西本願寺に娘を嫁がせて、本願寺を後ろ盾としました。
九条幸家の二男・九条道房は、嗣子なく三十九歳で薨去したので、同じ摂家の鷹司家から九条兼晴を養子に迎えて九条家の当主としました。
九条兼晴の子・九条輔実(くじょう すけざね)は, 中御門天皇の摂政と関白を務めました。
九条家を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光綱(明智氏)の娘・御ツバキは、織田信長(勝幡織田氏)の側室へ
- 織田信長(勝幡織田氏)の側室は、三条西実枝(三条西家)の娘・あここの方
- 三条西実隆(三条西家)の娘・保子は、九条尚経(九条家)の正室へ
九条家の家系図の範囲は、九条政基(1445年生)から、九条輔実(1669年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、九条家と他家との結びつきの例です。
- 九条尚経の正室は、三条西実隆(三条西家)の娘・保子
- 九条幸家の妻は、豊臣秀勝(豊臣秀吉の家系)
- 九条道房の正室は、松平忠直(結城氏)の二女・鶴姫(廉貞院)
- 九条輔実の妻は、後西天皇(皇室)の第十皇女・益子内親王
山城国 二条家(公家 摂関家)
豊臣秀吉に関白を譲り、秀吉の側室で織田信長の六女・三の丸殿を継室とした二条昭実の家系です。
二条家は、五摂家のなかでは、室町幕府、江戸幕府にもっとも親しい家系でした。
二条家の家系図は、二条尹房(にじょう ただふさ)から始めました。尹房は、後柏原天皇と後奈良天皇の関白として二度の関白を歴任しましたが、中国地方の大内氏と尼子氏の和議のため周防国に滞在中、大内義隆の家臣・陶隆房が義隆を攻めた大寧寺の変に遭遇して殺害されました。
二条尹房の二条晴良は、後奈良天皇と正親町天皇の関白として、父同様二度の関白を務めました。
二条晴良の二男・二条昭実は、正親町天皇の関白であったが、これを豊臣秀吉に譲り、秀吉の死後、秀吉の晩年の側室で織田信長の六女・三の丸殿を継室としました。
その後、後水尾天皇の関白に再任される一方、朝廷の行動を制限する意図の禁中並公家諸法度の制定に関与して、徳川家康・秀忠とともにこれに連署し、武家との窓口となりました。
二条昭実には嗣子がなかったため、同じ摂家の九条家から九条幸家の長男・二条康道を養子に迎えました。二条康道は、明正天皇と後光明天皇の摂政を務めましたが、康道のいとこ・明生天皇(昭実の母・完子の妹・徳川和子の娘)が十五歳の時、後水尾上皇が康道を関白とするよう指示したが、京都所司代・板倉重宗が猛然と反対して取りやめとなりました。
二条康道の子・二条光平は、後光明天皇と後西天皇の関白、霊元天皇の関白を務めました。
二条光平は嗣子がなかったため、同じ摂家の九条家から九条兼晴の子・二条綱平を養子に迎え、綱平は中御門天皇の関白を務めました。
二条家を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光綱(明智氏)の娘・御ツバキは、織田信長(勝幡織田氏)の側室へ
- 織田信長(勝幡織田氏)の娘・三の丸殿は、二条昭実(二条家)の継室へ
二条家の家系図の範囲は、二条尹房(1496年生)から、二条綱平の妻・栄子内親王(1673年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、ニ条家と他家との結びつきの例です。
- 二条尹房の正室は、九条尚経(九条家)の娘・経子
- 二条昭実の継室は、織田信長(勝幡織田氏)の娘・三の丸殿
- 二条昭実の養子は、九条幸家(九条家)の長男・二条康道
- 二条康道の妻は、後陽成天皇(皇室)の第六皇女・貞子内親王
- 二条光平の正室は、後水尾天皇(皇室)の第六皇女・賀子内親王
- 二条光平の養子は、九条兼晴(九条家)の子・二条綱平
- 二条綱平の妻は、霊元天皇(皇室)の第三皇女・栄子内親王
山城国 久我家(公家 清華家)
久我(こが)家は、家格が清華家(せいがけ)の公家ですが、戦国時代は源氏長者を独占した家系です。その後、源氏長者は、江戸時代には徳川家が独占します。
久我家の家系図は、久我通言から始めました。
久我通言の長男・久我邦通が家督を継ぎましたが、邦通は二十五歳で死去したので、近衛家から近衛尚通の二男・久我晴通をみずからの養嗣子として家督を継がせました。
久我晴通は、前将軍・足利義晴の正室で姉の慶寿院と衝突して朝廷を去りましたが、慶寿院の子の将軍・足利義輝には近侍しました。
久我晴通の子・久我通堅は、源氏の血筋をひいた最後の源氏長者となりました。
久我通堅の子・久我敦通は、朝廷と豊臣氏との取り次ぎとして、豊臣家からも信頼されて加増を受けましたが、匂当内侍(こうとうないし、後宮女官の首席)との密通の風聞により、後陽成天皇の勅勘を被り京から追放されました。
久我敦通の子・久我通世(こが みちよ)は、父・敦通とともに京を追放されたのち、消息が不明となったため、通世の弟・久我通前(こが みちさき)が通世の養子となって家督を継ぎました。
久我通前の子・久我堯通(こが たかみち)が家督を継ぎましたが、三十五歳で嗣子なく死去したため、堯通の弟・久我広通が家督を継ぎました。
久我家からは、戦国時代に分家して公家となった家がいくつかあります。
- 久我晴通の四男・岩倉具堯は、家格が羽林家(うりんけ)の岩倉家を興しました。
- 岩倉具堯の四男・千種有能(ちぐさ ありよし)は、家格が羽林家(うりんけ)の千種家を興しました。
- 久我通世の子・梅溪季通は、家格が羽林家(うりんけ)の梅溪家を興しました。
- 久我敦通の子・久世通式は、家格が羽林家(うりんけ)の久世家を興しました。
久我家を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光綱(明智氏)の妻は、武田信豊(若狭武田氏)の娘・お牧の方(明智光秀の母)
- 武田元光(若狭武田氏)の娘は、久我晴通(久我家)の妻へ
久我家の家系図の範囲は、久我通言(1487年生)から、久我広通(1626年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、久我家と他家との結びつきの例です。
- 久我通言の養子は、近衛尚通(近衛家)の二男・久我晴通
- 久我晴通の妻は、武田元光(若狭武田氏)の娘
- 久我晴通の娘は、近衛前久(近衛家)の正室へ
- 久世通式の正室は、細川忠隆(細川氏和泉上守護家)の娘・福
山城国 三条西家(公家 大臣家)
三条西家は、和歌にすぐれ『古今和歌集』の解釈である古今伝授を代々一家で相伝した家系で、和漢に精通した戦国時代の実隆、公条、実枝は、三条西三代と呼ばれています。
三条西家の家系図は、三条西実隆から始めました。
三条西実隆は、父・三条西公保の死去により家督を継ぎ、実隆の妻は、後土御門天皇の典侍・勧修寺房子と後奈良天皇の生母・勧修寺藤子と姉妹であることから、皇室とは深い関係でした。宗祇から古今伝授を受け、一条兼良とともに和歌・古典を発展させました。
三条西実隆の二男・三条西公条(さんじょうにし きんえだ)は、兄・三条西公順が出家したため家督を継ぎました。父・三条西実隆から『源氏物語』奥義を継承して注釈書『明星抄』を著し、後奈良天皇に『古今和歌集』を進講しました。
三条西公条の子・三条西実枝(さんじょうにし さねき)は、甲斐国へ下向して武田信玄の異母弟・武田信繁らと歌会をおこない、駿河国に下向したときは十七年間滞在し、京に戻ったのちは、三条西家伝わる『源氏物語』学の集大成『山下水』を著しました。
三条西実枝の娘・あここの方は、織田信長の側室となっており、実枝は信長の推挙で当時空席とされる慣習であった大納言に二十三年ぶりに任命されました。
子の三条西公国(さんじょうにし きんこく)が幼かったため、弟子の細川藤孝に古今伝授をおこない、藤孝は、公国の子・三条西実条(さんじょうにし さねえだ)に古今伝授を伝えました。
三条西実枝の子・三条西公国は、家督を継ぎましたが、三十二歳で死去しました。
三条西公国は、春日局の大おじ(春日局の母・安の父・稲葉良通の正室(三条西実枝の娘)の兄弟)であったので、春日局の父・斎藤利三(さいとう としみつ)が本能寺の変で明智光秀に従い山崎の戦いで敗死したのち、春日局を引き取り養育して公家の素養を身につけさせました。
三条西公国の子・三条西実条は、父が春日局を引き取り養育したので、春日局とは親しい関係でした。
父・三条西公国が早世だったため、祖父・三条西実枝から細川藤孝に伝えられた古今伝授を藤孝から伝授されました。
江戸幕府に武家伝奏が設けられると、これに任ぜられて幕府との交渉にあたりました。
春日局が病中の徳川家光の代理として上洛し、昇殿資格がなかったときは、三条西実条の猶妹となって、三条西家の資格で後水尾天皇に拝謁し、この強引な手法や紫衣事件を不快とした後水尾天皇は譲位しましたが、実条は終始幕府の意向に忠実でした。
三条西実条は、徳川家光の執奏により、右大臣となりました。
三条西家を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光安(明智氏)の妻は、斎藤利匡(美濃斎藤氏)の娘
- 斎藤利三(美濃斎藤氏)の娘・福(春日局)は、稲葉重通(美濃稲葉氏)の養子へ
- 稲葉良通(美濃稲葉氏)の正室は、三条西実枝(三条西家)の娘
三条西家の家系図の範囲は、三条西実隆(1455年生)から、三条西実条(1575年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、三条西家と他家との結びつきの例です。
- 三条西実隆の娘・保子は、九条尚経(九条家)の正室へ
- 三条西実枝の娘は、稲葉良通(美濃稲葉氏)の正室へ
- 三条西実枝の娘・あここの方は、織田信長(勝幡織田氏)の正室へ
山城国 足利将軍家
明応の政変で、細川政元が将軍を足利義稙(あしかが よしたね)から足利義澄に代えたことから、以後足利将軍家は、義稙系と義澄系に二分して対立します。
しかし、義稙と義澄の子らが対立したわけではなく、義稙には嗣子がなかったため、義澄の子である足利義晴と足利義維はともに義稙の養子となっており、義稙系とは、足方義稙・足利義維(義稙の養子)・足利義栄(義維の子)を指し、義澄系とは、足利義澄・足利義晴(義澄の子)・足利義輝(義晴の子)・足利義昭(義輝の弟)を指します。
この対立に公家の各摂家の支持が絡み、義稙系には九条流摂関家である九条家、二条家、一条家が支援し、義澄系には、近衛流摂関家である近衛家、鷹司家が支援しました。
しかし、義澄系の足利義輝が殺害された永禄の変後、近衛前久は義輝を殺害した三好三人衆に頼られ、義稙系の足利義栄の将軍就任を決定づけたため、二条晴良はこれに対抗して義澄系の足利義昭支持となり、織田信長が義昭の後ろ盾となって上洛すると、前久は関白から失脚して亡命し、晴良が関白となり、亡命していた九条稙通は帰洛しました。
足利将軍家の家系図は、足利義澄から始めています。
足利義澄は、明応の政変で、細川政元・日野富子によって、足利義稙に代わって第十一代将軍となりました。
日野富子の死後、細川政元と対立し、細川家の内紛で政元が殺害されると、前将軍・足利義稙を擁する大内義興が上洛すると、将軍職を廃されて近江に逃れ、将軍復帰を目指しながら病死しました。
足利義澄の長男・足利義晴は、管領・細川高国が将軍職に返り咲いていた足利義稙を放逐したため、上洛して第十二代将軍となりました。
細川家の内紛で細川高国が細川晴元に敗れると、近江に逃れそこで幕府を運営し(近江幕府)、晴元と和解すると、近衛尚通の娘を妻に迎えて京に戻りました。
細川晴元が細川氏綱と対立すると氏綱を支持しましたが舎利寺の戦いで晴元に敗れ、近江国 坂本に逃れて将軍職を長男・足利義輝に譲りました。
細川晴元が三好長慶と対立すると、晴元に協力しましたが、江口の戦いで晴元が敗れたため、足利義輝、晴元、近衛稙家らとともに近江国に逃れ、病死しました。
足利義晴の長男・足利義輝は、父・義晴とともに近江国へ逃れていたときに、将軍職を譲られ第十三代将軍となりました。
父・足利義晴の死後、細川晴元とともに、中尾城(京都市左京区)、霊山城(京都市東山区)で三好長慶と戦いましたが敗れ、近江国の六角義賢の仲介で長慶と和睦して京に戻り、幕府政治を再開しました。
京都では諸大名との修好に尽力し、美濃国の斎藤義龍、尾張国の織田信長、越後国の上杉謙信などが上洛・謁見しましたが、将軍の親政をきらう松永久秀・三好三人衆に二条御所に侵入され殺害されました(永禄の変)。
足利義澄の子で足利義稙の養子の足利義維(あしかが よしつな)は、義稙系として兄・足利義晴と対立し、三好元長、細川晴元が将軍・義晴を京から放逐すると、堺に居ながら山城国、摂津国を実効支配し、次期将軍を約束され、堺公方とよばれました。
しかし、後見人の三好元長が細川晴元により自害させられると、堺公方は崩壊し、阿波国、周防国へと移動しました。
永禄の変で甥の足利義輝(兄・足利義晴の嫡男)が殺害されると、将軍となった長男・足利義栄(あしかが よしひで)を後見し、織田信長に擁された甥・足利義昭との決戦を準備していましたが、その最中に義栄が病死したため、阿波国に引上げてそこで死去しました。
足利義維の長男・足利義栄は、永禄の変でいとこの足利義輝が殺害されると、中風で将軍の任に堪えられないだろうとされた父の代わりに、三好三人衆らによって第十四代将軍となりましたが、腫物のため摂津国 富田(大阪府高槻市)にとどまりました。
三好三人衆が足利義昭を奉じた織田信長に敗れると、阿波国に逃れ、腫物が悪化して病死しました。
足利義輝の弟・足利義昭は、永禄の変で兄・義輝が殺害されると、仏門にはいっていた興福寺から脱出し、武田義統の若狭国、朝倉義景の越前国で上洛の機会をうかがったが叶わず、織田信長を頼って尾張国へ移り、信長と上洛を果たし第十五代将軍となりました。
しかし、織田信長と次第に対立して挙兵して敗れ、毛利輝元を頼って備後国の鞆(広島県福山市)に移りました(鞆幕府)。
織田信長の死後、豊臣秀吉が九州を平定した時期に京へ戻り、秀吉に従い参内して将軍職を辞し、ここに室町幕府は滅びました。
その後は、豊臣秀吉から山城国 槇島で一万石の領地を認められ、晩年は秀吉の御伽衆となりました。
足利将軍家を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光綱(明智氏)の娘・御ツバキは、織田信長(勝幡織田氏)の側室へ
- 織田信長の養子・足利夫人は、足利義昭(足利将軍家)の側室へ
足利将軍家の家系図の範囲は、足利義澄(1481年生)から、平島義景(1613年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、足利将軍家と他家との結びつきの例です。
- 足利義晴の正室は、近衛尚通(近衛家)の娘・慶寿院
- 足利義晴の娘は、武田義統(武田氏)の正室へ
- 足利義輝の正室は、近衛稙家(近衛家)の娘
- 足利義昭の側室は、織田信長(勝幡織田氏)の養子・足利夫人
摂津国 本願寺
本願寺は、浄土真宗の寺院ですが、その宗主は世襲であるため、ひとつの家系とみなしました。
また、戦国時代の本願寺は、一向宗門徒の軍事力を有し、強大な政治力を発揮したため、婚姻・養子による他家とのつながりが多く見られます。
この二つの理由で、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れました。
本願寺の家系図は、円如から始めました。
円如の父・実如は、第九代宗主です。
円如は、兄・照如の死により得度して法嗣となり教団の実務をおこない、北陸門徒に対して一向一揆の禁止を含む三ヶ条の戒めを発布し、本願寺一族を嫡男の一門衆と二男以下の一家衆に分ける一門一家制をもうけるなどしました。
父・実如に先立ち死去したため、法主とはなりませんでした。
円如の子・証如は、祖父・実如の死去により本願寺 第十代宗主となりました。
細川晴元から要請を受けた外祖父(母・慶寿院の父)で大おじ(祖父・実如の弟)でもある蓮淳の意向で、門徒を動員して河内国の法華宗・三好元長を襲撃しましたが、門徒は大和国にも乱入してしまったため、晴元は本願寺と決別して山科本願寺を焼き討ちにし、円如は大坂御坊へ本願寺をうつして大坂本願寺として新たな拠点としました。
その後、細川晴元の養女を長男・顕如と結婚させて晴元と和解し、室町幕府とも親密な関係を築き、金沢に尾山御坊(のちの金沢城)を築いて加賀一向一揆への介入をおこないました。
証如の長男・顕如は、父・証如の死去により本願寺 第十一代宗主となりました。
本願寺への圧迫を強める織田信長と一連の石山合戦を戦い、これに敗れると石山本願寺を去り、紀州国の雑賀御坊へ移りました。
本能寺の変後は、羽柴秀吉と和解しましたが、秀吉は、石山本願寺の地に大坂城を建設し、その郊外に天満本願寺を建立して監視下に置きましたが、さらに京都七條堀川に移転させました。
顕如の長男・教如は、織田信長に敗れ石山本願寺を明け渡す折、父・顕如に反対して徹底抗戦を主張して籠城し、このとき宗主を継いだと称したため、顕如から義絶され、その後は、東海、北陸を転々としました。
本能寺の変後、後陽成天皇が顕如が教如の赦免を提案し、父から赦免されました。
父・顕如の死後、本能寺を継ぎましたが、母・如春尼が豊臣秀吉に、弟の准如に継がせるよう直訴し、十年後に譲るように決まりましたが、強硬派の御坊が異議を申し立てたため秀吉の怒りを買い、すぐに退隠させられました。
豊臣秀吉の死後、大津御坊を完成させ、徳川家康に会うため東国に向かい、関ケ原の戦いののちには家康を大津に迎え、その後、後陽成天皇の勅許を背景に、家康から京都七條烏丸に寺領が寄進され、東本願寺を分立し、第十二代法主となりました。
顕如の三男・准如は、父・顕如が死去して兄・教如が宗主となった際、母・如春尼の豊臣秀吉への直訴により本願寺を継承して第十二代宗主となりました。
兄・教如が東本願寺を分立すると、京都七條堀川の本願寺派西本願寺と呼ばれるようになりました。
東西分立後は、大坂に津村御坊、江戸浅草御坊(のちの築地本願寺)を建立して、教団の拡大に努めました。
西本願寺では、准如の二男・良如が父・准如の死により、西本願寺 第十三代宗主となりました。
准如は、御影堂を再建し、現在の対面所(国宝)、飛雲閣(国宝)を造営し、大谷本廟、現在の龍谷大学の前身となる学寮などを整備しました。
良如の子・寂如は、父・良如の死により、西本願寺 第十四代宗主となりました。
寂如は、父・良如が成し遂げられなかった経蔵の建立や大谷本廟の再建をおこないました。
寂如の十男・湛如が幼かったため、養子の娘婿の住如に跡を継がせました。
寂如の養子・住如は、公家で摂関家の九条兼晴の子で、早くから寂如の養子でしたが、寂如の十男・湛如が幼かったため、西本願寺 第十五代宗主となり、四十九歳で寂如の七女・常と結婚しました。
これに本徳寺(兵庫県姫路市)の寂宗、顕証寺(大阪府八尾市)の寂峰らが反対しましたが、湛如を養子とすることで和解しました。
寂如の子で、住如の養子の湛如は、住如の死去により西本願寺 第十六代宗主となりました。
湛如は幼少から病弱で、宗主就任時には肺結核であったため、妻・治子の実家の閑院宮家が病気平癒の祈祷をさせましたが、浄土真宗は神祇不拝の教義であるめ、能化(指導者)の法霖から自害をすすめられて自害しました。
湛如のいとこ・法如(湛如のおじ・寂円の二男)は、湛如が急折したため、西本願寺 第十七代宗主となりました。
法如は四十七年にわたって宗主の任にあたり、教義論争の「明和の法輪」を裁定したが、派閥争いを解消することはできませんでした。
男女三十人をもうけ、有力寺院や貴族と婚姻関係を結ぶことに努めました。
東本願寺では、教如の長兄・尊如、次兄・観如が早世し、三男・宣如が、父・教如の死去により東本願寺 第十三代法主となりました。
徳川家光から寄進されたときに、漢詩、儒学、書道、茶道、庭園設計に通じた石川丈山に庭園(現・渉成園)を造らせました。
宣如の二男・琢如は、父・宣如の退隠により、東本願寺 第十四代法主となりました。
宣如は、退隠して法主を長男・常如に譲ったのち、学寮(現・大谷大学)を創設し、東本願寺境内の親鸞及び本願寺歴代の仮墓を移転して大谷御坊(現・大谷祖廟)を造営しました。
琢如の長男・常如は、父・琢如の退隠により東本願寺 第十五代法主となりました。
常如は、本堂改築を発願し、落慶を迎えました。
弟・一如を法嗣として退隠しました。
常如の弟・一如は、東之御坊 本瑞寺(福井県福井市)、八尾御坊 大信寺(大阪府八尾市)の住職を務め、兄・常如の退隠により東本願寺 第十六代法主となりました。
本願寺を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光継の娘(明智氏)は、斎藤利賢(美濃斎藤氏)の継室へ
- 春日局(美濃斎藤氏)の養子・お振の方は、徳川家光(安祥松平家宗家)の側室へ
- 徳川秀忠(安祥松平家宗家)の娘・和子(東福門院)は、後水尾天皇(皇室)の皇后へ
- 八条宮智仁親王(皇室)の娘・梅宮(珠光院)は、良如(本願寺)の継室へ
本願寺の家系図の範囲は、円如(1491年生)から、法如(1707年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、本願寺と他家との結びつきの例です。
- 証如の娘・妙舜尼は、水野忠重(水野氏)の妻へ
- 顕如の妻は、細川晴元(細川氏京兆家)の養子・如春尼
- 宣如の妻は、九条幸家(九条家)の娘・序君(成等院)
- 顕尊の妻は祐心尼(宝寿院)で、その前夫は誠仁親王(皇室)
- 琢如の妻は、近衛信尋(近衛家)の娘・長君
和泉国 細川氏 和泉上守護家
細川藤孝(幽斎)の家系で、和泉上守護家は、和泉国の守護を務めた細川頼有の子孫です。
細川氏和泉上守護家の家系図は、細川元有から始めました。
細川元有は、家督を継いだ兄・細川政有の死去により和泉上守護家の家督を継ぎました。
本家筋の細川政元との戦いに敗れて家臣となったため、政元との戦いを続ける紀伊国・河内国・越中国の守護・畠山尚順(はたけやま ひさのぶ)に岸和田城を攻められて戦死しました。
細川元有の子・細川元常は、父・元有の戦死により和泉上守護家の家督と和泉上半国守護職を継ぎました。
細川京兆家の家督相続争いでは、阿波細川家の細川澄元と澄元側を支持する足利義澄を支持して細川高国と二度戦いましたが敗れて、守護職を失い、阿波国に逃れました。
細川澄元の死後はその嫡男・細川晴元を支持し、細川高国の死後、その養子・細川氏綱と戦ったが、晴元の重臣・三好長慶が裏切って江口の戦いで敗れ、長慶に追われた将軍・足利義輝に随行して近江国に逃れました。
細川元常の死により、和泉上守護家による和泉支配は終焉しました。
細川元常の二男・細川晴貞は、父・元常、細川晴元とともに、足利義維を擁して堺幕府を設置し、晴元が細川高国を滅ぼすと、元常は和泉上半国の守護に復帰して京都を拠点にし、晴貞が在国して、この頃に和泉上守護家の家督と守護職を継承しました。
しかし、江口の戦いとその直前の守護代・松浦守の離反により、和泉国の細川氏支配は崩壊して、三好長慶に和泉国は支配され、晴貞は消息不明となり、その四年後に父・細川元常は死去しました。
細川元常の養子で三淵晴員(みつぶち はるかず)の二男・細川藤孝は、養父・元常の死去により和泉上守護家の家督を継ぎましたが、同時に藤孝の子・細川忠興とその子孫が肥後細川家となることから、その初代当主ともされています。
足利義輝とその弟・足利義昭に仕えましたが、義昭が織田信長と対立すると信長に恭順し、その後は信長の武将として多くの戦いに参戦し、丹後国 南半国を得て宮津城主となりました。
本能寺の変では、親戚(嫡男・細川忠興の妻が明智光秀の娘・玉子)でもある明智光秀の要請を断り、その後は豊臣秀吉に仕え、九州平定などに参戦し、大隅国に三千石を加増されました。
豊臣秀吉の死後は、徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは丹後国 田辺城(京都府舞鶴市)に籠城となり、後陽成天皇の勅命により講和が結ばれ城を明け渡し、その後は京都・吉田で悠々自適な晩年を送りました。
三条西実枝から古今伝授を受け、実枝の孫・三条西実条に返し伝授をおこないました。田辺城籠城の折、後陽成天皇が勅命を発したのも、古今伝授が途絶えることを恐れたためといわれています。
細川藤孝の長男・細川忠興は、明智光秀の三女・玉子と結婚し、本能寺の変で父・藤孝が明智光秀の要請を断って隠居した際に、のちに肥後細川家となる家督を継ぎました。
父・細川藤孝に代わって丹後国 宮津城主となり、明智光秀についていた一色満信を滅ぼし、豊臣秀吉から丹後国全域の領有を許されました。
豊臣秀吉死後は、石田三成と対立し、関ヶ原の戦いでは、大坂城内の正室・玉子が人質となることを拒否して自害し、父・細川藤孝は丹後国 田辺城に籠城しましたが、忠興は本戦で戦功をあげて豊後国 小倉藩に加増国替えとなりました。
大坂の陣参戦後、病のため三男・細川忠利に家督を譲って隠居・出家し、忠利が肥後国 熊本藩に移封されると八代城(熊本県八代市)に入りました。
細川忠興の三男・細川忠利は、江戸に人質に出ていましたが、長兄・細川忠隆が廃嫡されたため、嫡子となり、やがて父・忠興が病のため、家督を継ぎました。
細川忠利は、人質時代に将軍・徳川秀忠の信頼を得ており、秀忠の養子・千世姫(保寿院)を妻とし、豊前国 小倉藩主を経て肥後国 熊本藩主となりましたが、父・細川忠興に先立って死去しました。
細川忠利の長男・細川光利は、父・忠利の死去により家督を継ぎました。
祖父・細川忠興が死去すると、その遺言により、いとこ・細川行孝(父・細川忠利の弟・細川立孝の長男)に三万石を分与して、宇土(うと)藩を立藩させました。
また、廃嫡されたおじ・細川忠隆(父・細川忠利の長兄)の一族を熊本藩の一門家臣団とし、家老制度、官制改革をおこなって、藩政の基礎を固めました。
細川藤孝の二男・細川興元(ほそかわ おきもと)は、兄・細川忠興とともに、織田信長、豊臣秀吉に仕え、秀吉の死後は徳川家康に仕えて、関ケ原の戦いの前哨戦である岐阜城攻めとその後の福知山城攻めで奮戦し、兄・忠興の豊後国への国替えに同伴して小倉城代となりましたが、忠興と不仲となり京都の父・細川藤孝のもとへ出奔しました。
徳川家康の仲介で、兄・細川忠興と和解し、大坂の陣での戦功により、常陸国 谷田部藩(茨城県つくば市)を立藩し、谷田部細川家の初代当主となりました。
細川興元の長男・細川興昌は、父・興元の死去により、谷田部細川家の家督を継ぎ、谷田部藩主となりました。
細川藤孝の三男・細川幸隆は、父・藤孝から和泉上守護家の家督を継ぎました。
関ヶ原の戦いでは、父・藤孝とともに丹後国 田辺城(京都府舞鶴市)に籠城し、その後、兄・細川忠興から龍王城(大分県宇佐市)一万石を与えられました。
幸隆には嗣子がなかったため、和泉上守護家は、甥の細川興孝(兄・細川忠興の五男)の長岡刑部家に継承されました。
細川忠興の五男・細川興孝は、おじ・細川幸隆(父・忠興の弟)の和泉上守護家を継承するかたちで、熊本藩藩主一門である長岡刑部家 初代当主となり、二万五千石を与えられました。
細川氏和泉上守護家を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光秀(明智氏)の娘・玉子は、細川忠興(細川氏和泉上守護家)の正室へ
細川氏和泉上守護家の家系図の範囲は、細川元有(1459年生)から、南条元知(1641年生)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、細川氏和泉上守護家と他家との結びつきの例です。
- 細川元有の男子・三淵晴員は、三淵晴恒(三淵氏)の養子へ
- 細川元常の養子は、三淵晴員(三淵氏)の二男・細川藤孝
- 細川忠興の正室は、明智光秀(明智氏)の娘・玉子
- 細川忠興の側室は、明智光忠(明智氏)の娘・小也
- 細川忠利の正室は、徳川秀忠の養子・千代姫(保寿院)
和泉国 細川氏 京兆家
細川氏京兆家は細川家の宗家で、戦国時代は管領職を独占し、足利将軍家を巻き込んだ京兆家内の争いが政権の中枢をめぐる争いとなりました。そのため、家督相続は、戦いに勝った結果として家督となるかたちが多くあります。
細川氏京兆家の家系図は、細川政元から始めました。
細川政元は、父・細川勝元の死去により家督を継ぎました。
将軍・足利義尚が死去すると、足利義澄を推挙しますが、日野富子、畠山政長の推す足利義稙(あしかが よしたね)が将軍となりました。
足利義稙が河内国の守護・畠山義豊を討伐中に、義稙と不和になっていた日野富子とともにクーデターを決行し、足利義澄を将軍にすえました(明応の政変)。
足利義稙が比叡山延暦寺を味方につけると、延暦寺を焼き討ちし、河内国、大和国を領国化し、丹後国の一色義有を攻めて勢力を拡大し、細川京兆家全盛を築きましたが、養子に迎えながら廃嫡した細川澄之により京都で暗殺されました(永正の錯乱)。
細川政元の養子で九条政基の子である細川澄之は、永正の錯乱で養父・政元を殺害して家督を継ぎました。
細川政基のもう二人の養子である細川高国と細川澄元は、澄之を攻めることで一致し、澄元の家臣・三好之長に攻められ、京都の居館・遊初軒(京都・嵐山)で自害しました。
細川政元の養子で、京兆家につぐ家格の阿波細川氏の細川義春の子である細川澄元は、養父・政元を永正の錯乱で殺害した同じ政元の養子の細川澄之を、同じく政元の養子の細川高国とともに討ち取って家督を継ぎました。
周防国の大友義興が前将軍・足利義稙を擁して上洛すると、細川高国がこれにつき、澄元は将軍・足利義澄と近江国に逃れ、家督は剥奪されました。
澄元は、京を奪還するため、足利義澄とともに細川高国と何度か戦い(両細川の乱)、この間に義澄は病死しましたが、高国についていた将軍・足利義稙が澄元に与し、一時は高国を近江国に追いやりますが、すぐに高国に敗れ、阿波国で死去しました。
細川政元の養子で、京兆家の分家のひとつである細川野州家の細川政春の子である細川高国は、養父・政元を永正の錯乱で殺害した同じ政元の養子の細川澄之を、同じく政元の養子の細川澄元とともに討ち取りましたが、周防国の大友義興が前将軍・足利義稙を擁して上洛すると、これにつき、澄元は将軍・足利義澄と近江国に逃れて家督は剥奪され、高国の家督継承が義稙により承認されました。
高国は、追放した足利義澄と細川澄元との戦いに勝利し、このあいだに義澄は病死し、自らが擁した足利義稙は澄元に与するようになったので、高国は、足利義澄の子・足利義晴を将軍に立て、反攻を繰り返した義稙はやがて死去しました。
高国は、家督を嫡子・細川稙国に譲りましたが、稙国が死去したため当主に復帰しました。
その後、重臣・香西元盛を謀殺したことで、元盛の実兄である波多野稙通と柳本賢治に丹波で、さらに家督を剥奪した細川澄元の子・細川晴元に阿波国で挙兵されて敗れ、足利義晴とともに近江国に逃れ(桂川原の戦い)、高国政権は崩壊しました。最後は、細川晴元を倒そうとして赤松政祐の裏切りに遭い(大物崩れ)、尼崎で自害しました。
細川高国の子・細川稙国(ほそかわ たねくに)は、父・高国の出家により家督と管領職を継ぎましたが、その直後に十八で病死しました。
細川澄元の子・細川晴元は、父・澄元と争っていた細川高国と将軍・足利義晴を近江国に追い落とし、足利義維(あしかが よしつな)を擁した堺公方を創設し、勢力の回復をはかる高国を討ち取って、家督と管領職を奪還しました。
堺公方から将軍・足利義晴支持に転向すると、家臣・三好元長と対立し、本願寺の証如に蜂起を依頼して元長を敗死させましたが、一向一揆の勢いが止まらなかったため、今度は法華宗と協力して法華一揆を誘発させ、領内で一向宗に悩まされていた近江国の六角定頼と協力して山科本願寺を焼き、更に移転した石山本願寺と戦い和睦し(享録・天文の乱)、元長の嫡男・三好長慶とも和睦しました。
京都で勢力を伸ばした法華衆に対しては、比叡山延暦寺、六角定頼と連合して壊滅させ(天文法華の乱)、管領として幕政を支配し、六角定頼の猶子となっていた三条公頼の娘を正室としました。
細川高国の養子・細川氏綱が挙兵すると丹波国に逃亡し、足利義晴と将軍職を継いだその子・足利義輝は細川氏綱に転じましたが、三好長慶とともに氏綱の反乱を鎮圧し、義晴とも和睦しました。
しかし、細川氏綱に寝返った池田信正を切腹させると、今度は三好長慶が対立して挙兵してこれに敗れ(江口の戦い)、足利義晴、将軍・足利義輝とともに近江国坂本に逃れました。
細川氏綱と三好長慶が上洛すると、京奪還を試みますが敗れ、摂津国 普門寺城に幽閉されて死去しました。
細川高国の養子で、細川家の分家のひとつ・細川典厩(ほそかわてんきゅう)家の細川尹賢(ほそかわ ただかた)の子である細川氏綱は、養父・高国を細川晴元に殺され(大物崩れ)、実父・尹賢も高国を見限って晴元につきましたが、不和となり晴元に殺されました。
細川晴元を討つため,和泉国で挙兵し、晴元の家臣・三好長慶が氏綱についたために、晴元に勝利しました(江口の戦い)。
氏綱は、三好長慶とともに上洛して京兆家の家督となり、山科国 淀城に入り、十二年後淀城で死去しました。
細川晴元の子・細川昭元は、父・晴元が対立した三好長慶と一時的に和睦した際に人質となり、長慶のもとで元服し、父の死の前年に久々の対面を果たし、父の死去により家督を継ぎました。しかし、このときは、父・細川晴元から家督を奪った細川氏綱が死去する一年前のことでした。
永禄の変で将軍・足利義輝が殺害されると、三好三人衆により名目上の管領の処遇を受けました。
織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、三好三人衆が敗れると、阿波国へ逃れ義昭に対する敵対行動をとりますが、三好三人衆が信長と和睦すると、上洛して義昭に臣下の礼をとり、名門出身であるため義昭から重宝されました。
織田信長が足利義昭を追放すると、信長から優遇されて義昭の去った槇島城(京都府宇治市)を任され、信長の妹・お犬の方を正室としました。
本能寺の変後は、本来細川家の家臣の家系である長宗我部元親と織田信雄の連携をはかりましたが、反秀吉勢力の結集はできず、やがて秀吉に属し、秀吉からも貴人として遇されて御伽衆となりました。
細川昭元の子・細川元勝は、父・昭元の家督を継ぎました。
元勝は、豊臣秀頼に近侍し、大坂の陣では豊臣川で戦いましたが、戦後、母の実家である織田家から徳川家への進言で助命され、姉妹が大名(北出羽、常陸国 宍戸藩)の秋田実季に嫁いでいた縁で、秋田氏に客将として迎えられました。
細川氏京兆家を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光綱(明智氏)の娘・御ツバキは、織田信長(勝幡織田氏)の側室へ
- 織田信秀(勝幡織田氏)の娘・お犬の方は、細川昭元(細川氏京兆家)の正室へ
細川氏京兆家の家系図の範囲は、細川政元(1466年生)から、細川元明(1561年生の細川元勝の子)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、細川氏京兆家と他家との結びつきの例です。
- 細川政元の養子は、九条政基(九条家)の子・細川澄之
- 細川澄元の娘は、武田元光(武田氏)の妻へ
- 細川晴元の養子・如春尼は、顕如(本願寺)の妻へ
- 細川晴元の養子は、三条西実隆の娘
- 細川昭元の正室は、織田信秀(勝幡織田氏)の娘・お犬の方
和泉国 三淵氏
細川幽斎の生家の家系です。
三淵氏は、その家祖・三淵持清が第四代将軍・足利義持の庶子とされ、以後、足利将軍家に仕え、婚姻・養子を通じて細川氏和泉上守護家と関係が深い家系です。
三淵氏の家系図は、三淵晴貞から始めています。
三淵晴貞の子・三淵晴恒は、父・晴貞から家督を継ぎ、将軍の側近で、和泉国 松崎館、山城国 大法寺館を領しました。
三淵晴恒の養子で、和泉上守護家の細川元有の子である三淵晴員(みつぶち はるかず)は、養父・晴恒から家督を継ぎ、養父と同じく和泉国 松崎城主、山城国 大法寺城主となりました。
足利将軍家は、足利義澄・義晴父子と足利義稙のあいだで将軍職をめぐる争いを展開しており、三淵氏は義澄派でした。
三淵晴員の姉・佐子局(清光院)は、足利義晴の養育係で、義晴の将軍就任後も近侍して政務に関与し、義晴の子・足利義輝の乳人も務めました。佐子局の父は、弟・三淵晴員の実父・細川元有か、晴員の養父・三淵晴恒かは不明で、家系図ではとりあえず元有としてあります。
三淵晴員は、足利義晴・義輝父子が細川晴元に敗れて近江国に逃れた時はこれに従い、義輝が永禄の変で暗殺されたのちは、義輝の弟・足利義昭に仕えました。
三淵晴員の長男・三淵藤英は、父・晴員から家督を継ぎました。
将軍・足利義輝が暗殺されると、弟・細川藤孝とともに足利義昭を興福寺から救出し、近江国 矢島で還俗させ、将軍として擁立すべく、越前国の朝倉義景、ついで尾張国の織田信長を頼り、義昭が信長に擁立されて将軍となると、義昭の重臣となりました。
足利義昭と織田信長との戦いでは、義昭側として二条城に籠もるが柴田勝家に敗れ、その後信長に仕えましたが、突如所領を没収され、明智光秀に預けられ、嫡男・三淵秋豪とともに坂本城で自害しました。
三淵藤英の弟・長岡義重は、義重の兄・細川藤孝の娘・栗と結婚して肥後国 熊本藩の家臣となり、家督を継ぎました。
三淵藤英の二男・三淵光行は、父・藤英と兄・三淵秋豪が自刃させられたのち、おじの保細川藤孝(父・藤英の異母弟)に養育され、細川家の家臣となりました。
関ヶ原の戦いの前哨戦である田辺城(京都府舞鶴市)の戦いで、細川藤孝を助けて奮戦した功績を徳川家康に評価され、近江国 神崎郡に千石を賜り、江戸幕府直参の旗本となって三淵家を再興しました。
三淵光行の長男・三淵藤利は、父・光行から家督を継ぎました。
三淵氏を「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」に入れたのは、明智氏と以下ようにつながるからです。
- 明智光秀(明智氏)の娘・玉子は、細川忠興(細川氏和泉上守護家)の正室へ
- 細川元有(細川氏和泉上守護家)の妻は、三淵晴貞(三淵氏)の娘
三淵氏の家系図の範囲は、三淵晴貞(1500年生の三淵晴員の養父)から、三淵山入(1571年生の三淵光行の三男)あたりまでです。
以下は、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」で、三淵氏と他家との結びつきの例です。
- 三淵晴貞の娘は、細川元有(細川氏和泉上守護家)の妻へ
- 三淵晴員の養子は、細川元有(細川氏和泉上守護家)の子・三淵晴員
- 三淵晴員の二男・細川藤孝は、細川元常(細川氏和泉上守護家)の養子へ
- 三淵晴員の娘・宮川尼は、武田信高(若狭武田氏)の妻へ
- 長岡義重の妻は、細川藤孝(細川氏和泉上守護家)の娘・栗
「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」のPDF版とオリジナル版の違い
PDF版とオリジナル版(FreeMind版)には以下の違いがあります。
ページ数
オリジナル版(FreeMind版)には、ページという概念がないので、いわば1ページの大きな図で、婚姻と養子を表すすべての矢印は、PDF版のように途中で切れることなくつながっています。
PDF版は通常は、文字が適切に読める大きさを保った倍率で、大きなカスタム用紙のPDFとしたものとなります。
PDFをFreeMindの[印刷]メニューから作成するためのPDF作成ツールは多くあり、それぞれのツールによって指定できるカスタム用紙の大きさが違います。
しかし、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」の場合は、オリジナル版が大きすぎて、これを1ページのPDFにするツールがありませんでした。
そのため、「戦国四十家」の各家ごとに1ページのPDFとし、各ページを集めてPDFのひとつのファイルとしています。
オリジナル版(FreeMind版)は、マインドマップなので、ノード(文字を書く四角の部分)の折りたたみができるため、PDFにする家の家系図だけを展開し、それ以外の家の家系図は折りたためば、全体の図が小さくなり、これだとPDFにできる大きさになるのです。
1ページ目は、この家系図の書き方の「凡例」で、2ページ目の「結城家」から各家の家系図となります。
「豊臣秀吉の母の家系」「豊臣秀吉の家系」「豊臣秀吉の姉・智の夫の家系」「豊臣秀吉の妹・朝日姫の夫の家系」の4つは1ページにまとめていますので、全体で38ページとなり、ページの構成は以下のようになります。
PDFページ |
家系図 |
1 | 凡例 |
2 | 結城氏 |
3 | 水野氏 |
4 | 安祥松平家(宗家) |
5 | 長沢松平家 |
6 | 勝幡織田氏 |
7 | 清洲織田氏 |
8 | 杉原氏 |
9 | 浅野氏 |
10 | 豊臣秀吉の母・仲の家系 |
10 | 豊臣秀吉の家系 |
10 | 豊臣秀吉の姉・智の夫の家系 |
10 | 豊臣秀吉の妹・朝日姫の夫の家系 |
11 | 佐治氏 |
12 | 池田氏 |
13 | 本多氏 |
14 | 神戸氏 |
15 | 小笠原氏 |
16 | 姉小路氏 |
17 | 土岐氏 |
18 | 美濃斎藤氏(道三流) |
19 | 美濃斎藤氏 |
20 | 美濃稲葉氏 |
21 | 明智氏 |
22 | 浅井氏 |
23 | 蒲生氏 |
24 | 京極氏 |
25 | 神保氏 |
26 | 柴田氏 |
27 | 武田氏 |
28 | 皇室 |
29 | 近衛家 |
30 | 九条家 |
31 | 二条家 |
32 | 久我家 |
33 | 三条西家 |
34 | 足利将軍家 |
35 | 本願寺 |
36 | 細川氏(和泉上守護家) |
37 | 細川氏(京兆家) |
38 | 三淵氏 |
オリジナル版(FreeMind版)の各家系図の大きさは異なるので、PDFの各ページの大きさも、以下の図のように異なる大きさの用紙となっています。

婚姻・養子の矢印
マインドマップ家系図は、婚姻を表すときは、実家と婚姻先の家系図の両方に名前を書き、それを矢印で結びます。婚姻はピンクの矢印、養子は青の矢印で表示します。
家系図マインドマップでは、男子が成人して結婚すると、妻の実家がその家系図に入っていれば矢印が発生します。女子は、成人して結婚すると、結婚先の家が家系図に入っていれば矢印が発生します。
このようにして、矢印の数はかなり多くなります。
そのため、以下の図のように、矢印が場所的に交差したり、家系図内の場所が遠く離れた家系どうしをつなぐ矢印の場合は矢印が長くなるため、マウスを動かして矢印を目で追うのは、現実的ではありません。

オリジナル版(FreeMind版)は、矢印上で右クリックすると、以下のようなダイアログが出ます。
ダイアログの下部に2つある[リンク先]のうち、上の[リンク先]は矢印元のノードへ、下の[リンク先]は矢印先のノードへ飛びます。
これは強力な機能で、矢印の一部が見えていれば、そこから矢印元(結婚の場合は実家、養子の場合は養子元)にでも矢印先(結婚の場合は嫁入先、養子の場合は養子先)にでも、瞬時に移動することができます。

これに対して、PDF版の矢印はただの図なので、このようなリンク機能はありません。
またPDF版は、1ページがひとつの家系の家系図となっているため、二種類の矢印となって表示されます。
実線の矢印は、同じページ内(同じ家系の家系図)の二つのノードを結ぶ矢印で、点線の矢印は、別ページ(他の家の家系図)のノードとつながっている矢印です。
この実線と点線の矢印は、PDF版だからこうなるのではなく、オリジナル版(FreeMind版)で、矢印の一方の端が折りたたんだノードの中にあって表示されていないノードに対する矢印の場合に、点線の矢印となります。
PDF版は、1ページで展開されている家系図はひとつの家の家系図だけで、他家の家系図は折りたたんでいるので、他家への矢印が点線となっています。
オリジナル版(FreeMind版)は、すべての家の家系図を展開しているので、点線の矢印はありません。
オリジナル版(FreeMind版)がすぐれているのは、表示の都合上、一部分を折りたたんで、点線の矢印となった場合でも、矢印上の右クリックのリンク機能を使って、折りたたんだ部分を表示させようとすると、自動的に[折りたたみ]が[展開]されます。点線の矢印でも、先に展開しておいてから矢印をたどるという必要はありません。
以下の図は「結城家」のページの一部です。「国姫」は「松平光通(まつだいら みつみち)の正室」となりますが、松平光通は、同じ「結城家」のページの家系図の人物なので、ピンクの矢印は実線の矢印となっています。矢印をたどると、同じページの「松平光長(まつだいら みつなが)の娘 国姫 くにひめ」のノードとつながっています。
これに対して、「松平綱賢」の妻「九条道房(くじょう みちふさ)の三女 梅姫 豊光院」は、別ページの九条家から矢印が来ており、九条家は折りたたまれているので、点線の矢印となっています。点線の矢印をこのページ内でたどっても、ページの端で切れてしまい、どこから来た矢印なのかを追うことはできません。

PDF版で矢印を追うためには[検索]機能を使います。
「九条道房(くじょう みちふさ)の三女 梅姫 豊光院」の矢印元を探すには、PDFビューアの[検索]機能で「梅姫」で検索すると、以下の図のように二つ結果が出ます。
二つある検索結果のうち、上のほうは、矢印先(婚家)の「梅姫」で、下のほうは、矢印元(実家)の「梅姫」です。
矢印元(実家の「梅姫」は、PDFの30ページの「九条家」の家系図に飛びます。

以上のように、数多くある矢印の追跡という点で、オリジナル版(FreeMind版)とPDF版では大きな違いがあります。オリジナル版(FreeMind版)の利用をお勧めします。
おすすめPDFビューアはPDF-XChange Viewer
PDF版「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」を見るためのPDFビューアは、以下の三つの条件を満たすものがいいでしょう。
ひとつは、当然ながら、すべてのページが正常に表示されることです。
定番のAdobe Acrobat Reader DCは、「このページのサイズは許容される範囲を超えています。ページの内容が切り捨てられる可能性があります」というダイアログが出ます。
もともとPDFの規格自体が、約5m以内の用紙を想定しているらしいので、このエラーが正常なのでしょう。
このサイトの「おすすめ家系図作成ソフトで作った家系図の印刷」ページで紹介した、Windows版のPDF-XChange Editorでも、「安祥松平家」のような大きなカスタム用紙のページは途中で切れてしまっています。
PDF版「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」を正常に表示できるPDFビューアは、PDF-XChange Viewerです。
PDF-XChange Viewerの後継ソフトが、「おすすめ家系図作成ソフトで作った家系図の印刷」ページで紹介した、PDF-XChange Editorなので、古いソフトを紹介することになってしまうのですが、PDF-XChange Viewerは以下のサイトからダウンロードできます(2020年12月現在)。
PDF-XChange Viewerは、Windows版のみです。
二つ目は、マウスのドラッグによる移動ができることです。
この家系図は各ページが大きいので、PDFビューアの下と右についているスクロールバーで見たい場所へ移動するのは、とても使い勝手が悪く感じます。マウスのドラッグ(左ボタンを押した状態でマウスを動かす)で画面が動いてくれると、見たい場所への移動がとてもスムーズです。Adobe Acrobat Reader DCでは、これができません。
三つ目は、検索結果が一覧で観れることです。
検索結果が複数ある場合、検索結果の一覧がなく[次へ]ボダンだけがあると、すべてを見ていかなければならず、時間の無駄です。PDF-XChange Viewerは、検索結果が一覧で出るので、目的のノードがどれかすぐにわかります。
検索について
例えば、徳川家康がこの家系図のどこにあるかを調べたいとします。
「徳川家康」と検索すると、多くの人物のメモ欄に「徳川家康」が出てきます。「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」のメモ欄には、家系図に登場する人の事績が記述されているので、「結城康秀」のメモ欄に「関ヶ原の戦いでは、父・徳川家康により、…」などと書かれており、これらが検索で引っかかってくるからです。
そのため、家系図上の人物の場所を検索するときは、人物名のひらがなで検索します。人物のノードには、すべてではないのですが、読み方がひらがなで記述されています。ひらがなの書き方は、「苗字+半角スペース+名前」なので、検索語として「”とくがわ いえやす”」のように苗字と名前のあいだに半角スペースを入れ、前後にダブルクォーテーションマークを入れます。
以下の図は、PDF版での「”とくがわ いえやす”」の検索結果です。
検索結果の「とくがわいえやす 養子」とあるのが、徳川家康のノードのことです。徳川家康のノードに書かれているのは「徳川家康 とくがわ いえやす」だけで、「養子」は、このノードからつながる「養子」というノードのことです。どういうわけか、検索結果には、検索したいノードの記述だけでなく、それとつながる余計なノードの記述も入ってくる場合があるようです。

また、PDF版の漢字の検索では、以下の漢字を含む検索語を使うと、検索結果がゼロとなります。
これを含むと検索結果がゼロになる漢字は、これ以外にもあるかもしれませんが、とりあえず気がついた漢字は、以下のものです。こうなる原因は不明です。
「水」「山」「小」「西」「竹」「方」「八」「谷」「子」「長」「犬」「田」「石」「生」「母」「日」「自」「羽」「木」「臣」「十」「土」「一」「大」「心」「布」「亀」「戸」「行」「馬」「金」「見」「辰」「色」「毛」「玉」「士」「氏」「青」「高」「文」「里」「竜」「人」「二」「赤」「甘」「香」「立」
「水」を含むので、例えば「水野家」は漢字で検索しても、ほぼ全滅です。この対策の意味からも、人物名ならひらがなで検索するのがいいのですが、人物名をどう読むのかの出典がなく、ひらがなの読みを入れていない人物もあります。
その例である「水野重富」はどう検索するかというと、「水」を抜いて「”野 重富”」で検索します。
以下の図は「”野 重富”」の検索結果です。
PDF版の検索では、このような多少の工夫も必要が必要です。

オリジナル版(FreeMind版)の検索は、PDF版のような検索結果がゼロになる漢字はありません。
オリジナル版(FreeMind版)の検索は、[検索]機能ではなく、[検索と置換]機能で検索します。[検索]機能だと、検索結果が一覧で出ず、[検索と置換]だと検索結果が一覧で出るからです。
「水野重富」のノードを検索する場合は、苗字と名前の間に半角スペースがはいっているはずなので「水野 重富」と検索します。
以下の図は、オリジナル版(FreeMind版)での検索結果です。「水野重富」は、この家系図では、養子元と養子先の二箇所で出てくるので、検索結果も二つ出てきています。

残念なのは、この検索結果ダイアログを常に表示しながら、複数出てくる検索結果のひとつひとつについて、家系図上のノードに飛べないことです。ひとつの検索結果をダブルクリックすると、その検索結果のノードに飛ぶのですが、この検索結果ダイアログも消えてしまい、もう一度出すと、再び同じ検索語を入力しなくてはいけません。
そこで、検索結果ダイアログの一番下の部分を見ると、どういうノードをたどって検索結果にたどり着いているのかの径路が出ています。
「水野重富」の場合は、「水野 重富<-六男<-子…」で、「子」「六男」とあるので、生家の部分だというのがわかります。
もうひとつの検索結果は、「(水野忠晴(みずの ただはる)の六男)水野 重富<-養子<-…」と表示され、「養子」につながるノードとなっているので、養子先の「水野重富」だとわかります。
こうして、径路を確認することで、目的のノードを探すヒントとすることができます。
以上のように、検索機能においても、オリジナル版(FreeMind版)とPDF版では大きな違いがあります。オリジナル版(FreeMind版)の利用をお勧めします。
印刷について
「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」のような用紙の大きな家系図は、印刷するのが大変です。
このサイトの「おすすめ家系図作成ソフトで作った家系図の印刷」ページで、家系図マインドマップの印刷のやり方を詳しく述べましたが、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」の場合は、印刷してどう使うのかを考えてみる必要がありそうです。
各家の家系図の中で一番大きな「安祥松平家(宗家)」の家系図は、横約2m、縦約10mになります。これが印刷できたとしても、日本の一般的な家で広げる場所を探すのは大変そうです。そう考えると、5mを超えるような用紙の家系図は、印刷して使わないほうがいいのかもしれません。
では、どうやって使うのかというと、おすすめはオリジナルソフト(FreeMind)で見る、です。
本サイトの「わたしのおすすめ家系図作成ソフト」ページの「家族で家系図を見たい」では、PDF版をテレビで見るシーンを想定しましたが、「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」ではPDF版ではなくオリジナルソフト(FreeMind)版のほうがいいでしょう。
理由は、先に述べたとおり、PDF版では、婚姻・養子の矢印を追うのに[検索]機能を使わなくてはならず、入力の手間がかかるのと、その[検索]機能に、使えない漢字があるためです。
オリジナルソフト(FreeMind)版なら、矢印上で右クリックして、矢印元へも矢印先へも飛ぶことができ、また、家系図から誰かを探す場合の[検索と置換]機能で使えない漢字はありません。
FreeMindはWindows版、Mac版、Linux版がそれぞれあるので、使っているパソコンに合ったものをインストールすれば使えるようになります。
「明智光秀関連 戦国四十家連結家系図」のような5mを超える用紙の家系図は、ひとりで使う時はパソコンで使い、みんなで見たいときは、パソコンをテレビにつないで、オリジナルソフト(FreeMind)版を操作しながら見る、という使い方をお勧めします。
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■池端俊策『NHK大河ドラマガイド 麒麟がくる 前編』、NHK出版、2020年、192頁、1,201円
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■『NHK大河ドラマ 歴史ハンドブック 麒麟がくる 明智光秀とその時代』、NHK出版、2019年、160頁、1,100円
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■菊池浩之『織田家臣団の系図』(角川新書)、KADOKAWA、2019年、352頁、990円
■菊池浩之『徳川家臣団の系図』(角川新書)、KADOKAWA、2020年、352頁、990円
■小和田哲男『戦国大名106家 最強の家系図』中経出版(新人物往来社、2009年のオンデマンド)、358頁、2,750円
■竹内正浩『家系図で読みとく戦国名将物語』、講談社、2009年、234頁、432円
戦国大名家系図関連書籍 – 事典・辞典
■小和田哲男 編『戦国大名閨閥事典 第1巻』、新人物往来社、1996年、265頁、7,900円(古本)
■小和田哲男 編『戦国大名閨閥事典 第2巻』、新人物往来社、1996年、276頁、28,560円(古本)
■小和田哲男 編『戦国大名閨閥事典 第2巻』、新人物往来社、1996年、276頁、28,560円(古本)
■山本大、小和田哲男 編『戦国大名系譜人名事典 東国編』、新人物往来社、1985年、555頁、4,558円(古本)
■山本大、小和田哲男 編『戦国大名系譜人名事典 西国編』、新人物往来社、1985年、563頁、4,618円(古本)
■森岡浩 編『戦国大名家辞典』、東京堂出版、2013年、608頁、6,820円